「60年前の新生児取り違え」についての感想
11月27日、産院で60年前に出生直後に取り違えられ、実の両親とは異なる夫婦に育てられた男性(60歳)が産院側に約2億5千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は産院の過失を認め、3800万円の支払いを命じる記事が載っていた。
今年、9月30日に新生児取り違えを扱った映画、福山雅治主演の「そして父になる」が公開された。私はこの映画を見ていないので何ともいえないが、今回の事件はフィクションを超える事実であり、まさにことわざ「事実は小説よりも奇なり」を証明する結果となった。
取り違えられたA氏とB氏のその後の人生の歩みを聞くと、180度違った人生を歩んでいることが判った。今回訴訟で勝利したA氏は、取り違えの結果貧しい家で育てられ、中学校卒業後就職しなければならない苦難の道を歩んで来た。一方、B氏は裕福な家で育てられ大学まで行き、ちゃんと就職し現在は不動産会社の社長であるとのことである。
ここで感じたことは、人はそれぞれ生まれた環境、育った環境、時代、によって、“自分では変えられない運命をしょって人生を歩んで行くものである”
と云うことを改めて認識した次第である。
私は演歌が大好きで、元の会社のカラオケ倶楽部に参加し毎月歌っている。北島三郎が歌う「男の人生」という演歌がある。この演歌の歌詞は、まさに今回の取り違え事件を象徴さす内容であり、今回の事件を聞いた途端にこの演歌を連想したのである。この歌詞(作詞:いではく)の1番を紹介すると、
「花の咲く道 茨の道も 人はそれぞれ 運命(さだめ)を歩く 義理を背負って 真実(まこと)を抱いて 奥歯かみしめ 生きてきた ふりかえれば50年 男の人生さ」
特に、強く意識したのは、「花の咲く道、茨の道も 人はそれぞれ 運命(さだめ)を歩く」 というくだりである。それぞれの人がどんな人生を歩むのかは、生まれた環境、育った環境、時代、から決まる運命(さだめ)に従うということである。
中にはそうではなく、例え貧しい環境に生まれても、能力、努力、運、等々により、新しい道を切り開き、成功した人の例もたくさんあり、運命(さだめ)だけではないと主張する人もいると思うが、そんな人はほんの一握りであり、道を切り開くこと自身が、その人の運命(さだめ)であったと言えば解釈できるのではないかと感じている。
所で、60歳あるいは70歳を過ぎた諸兄の方々で、過去自分が歩んで来た道のりを振り返って見て、自分の人生は運命(さだめ)に従った人生であったのか、あるいは自分で道を切り開いた人生であったのか、どう感じておられますか?一度お聞きして見たいものであると思っています。コメント頂ければ幸甚です。