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2013年11月の記事

2013年11月29日 (金)

「60年前の新生児取り違え」についての感想

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1127日、産院で60年前に出生直後に取り違えられ、実の両親とは異なる夫婦に育てられた男性(60歳)が産院側に約25千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は産院の過失を認め、3800万円の支払いを命じる記事が載っていた。

今年、930日に新生児取り違えを扱った映画、福山雅治主演の「そして父になる」が公開された。私はこの映画を見ていないので何ともいえないが、今回の事件はフィクションを超える事実であり、まさにことわざ「事実は小説よりも奇なり」を証明する結果となった。

取り違えられたA氏とB氏のその後の人生の歩みを聞くと、180度違った人生を歩んでいることが判った。今回訴訟で勝利したA氏は、取り違えの結果貧しい家で育てられ、中学校卒業後就職しなければならない苦難の道を歩んで来た。一方、B氏は裕福な家で育てられ大学まで行き、ちゃんと就職し現在は不動産会社の社長であるとのことである。

ここで感じたことは、人はそれぞれ生まれた環境、育った環境、時代、によって、自分では変えられない運命をしょって人生を歩んで行くものである” と云うことを改めて認識した次第である。

私は演歌が大好きで、元の会社のカラオケ倶楽部に参加し毎月歌っている。北島三郎が歌う「男の人生」という演歌がある。この演歌の歌詞は、まさに今回の取り違え事件を象徴さす内容であり、今回の事件を聞いた途端にこの演歌を連想したのである。この歌詞(作詞:いではく)の1番を紹介すると、

「花の咲く道 茨の道も 人はそれぞれ 運命(さだめ)を歩く 義理を背負って 真実(まこと)を抱いて 奥歯かみしめ 生きてきた ふりかえれば50年 男の人生さ」

特に、強く意識したのは、「花の咲く道、茨の道も 人はそれぞれ 運命(さだめ)を歩く」 というくだりである。それぞれの人がどんな人生を歩むのかは、生まれた環境、育った環境、時代、から決まる運命(さだめ)に従うということである。

中にはそうではなく、例え貧しい環境に生まれても、能力、努力、運、等々により、新しい道を切り開き、成功した人の例もたくさんあり、運命(さだめ)だけではないと主張する人もいると思うが、そんな人はほんの一握りであり、道を切り開くこと自身が、その人の運命(さだめ)であったと言えば解釈できるのではないかと感じている。

所で、60歳あるいは70歳を過ぎた諸兄の方々で、過去自分が歩んで来た道のりを振り返って見て、自分の人生は運命(さだめ)に従った人生であったのか、あるいは自分で道を切り開いた人生であったのか、どう感じておられますか?一度お聞きして見たいものであると思っています。コメント頂ければ幸甚です。

 

2013年11月20日 (水)

リーマン破綻後、日本を襲った円高とは何であったのか?

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リーマン・ショックが起こって5年が経過した。今、何故当時日本は円高に対して有効な手を打つことが出来なかったのか?過去5年間のデータを見て振り返ってみたい。

2008915日、米国の投資銀行リーマン・ブラザーズが経営破綻した。これに伴い世界金融危機(世界同時不況)が発生し、日本を急激な円高が襲った。そして、日経平均株価も大暴落を起こし、912日の終値12,214円であったのが、1028日には6,995円まで下落した。この後約5年間、日本経済は超円高とデフレに悩まされ低迷が続いた。

リーマン・ショックという経済危機は米国発のものであり、日本は円高に巻き込まれるような経済状況(輸出過多で円高もやむを得ない)でなかったにも関わらず、経済の実態を外れた円高に巻き込まれ苦しんだのである。当時、この不合理さに納得出来ず、ブログでもこの疑問点(諸悪の根源 「円高」 対策は何故出来ないのか?を述べている。

この5年間、日本企業は大変な苦しみを味わった。超優良企業と云われた、トヨタ、ホンダ、ソニー、パナソニック、等々でも営業赤字を計上するようになったのである。不当な超円高が是正されない限り、国内で生産を行っていたのでは採算が合わず、賃金の安い国へ海外進出する以外に有効な手立てはなかった。為替介入は米国から厳しく封じられていた。

この5年間に、大企業の国内生産基地であった地方の工場は閉鎖され海外へと移されて行った。この結果、非常に多くの雇用が失われた。アベノミクスにより、円高が是正された現在でも、これを元に戻すこと(覆水盆に返らず)は出来ていない。

ここで、過去5年間の為替推移と資金の供給量をグラフで見てみると、米国はリーマン・ショック発生直後(一番下のグラフ)、市場へのドル供給量を2.5倍に増やしている。これに呼応してドル安が急激に進んでいる。このドルの量的緩和が5年間続けられ現在もまだ続いている。

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リーマン・ショック不況発生と同時に急激なドル安となったため、米国の輸出は伸び不況を緩和することに役立ったのである。米国発の不況のツケを海外へ回す手法、即ち外需による景気テコ入れを行ったのである。ここで重要なのは、FRB議長であるバーナンキは、1930年代の大不況の研究者でもあり、次元の違う量的緩和を行えば急激なドル安が起こると読んでいたのである。

一方、日本の日銀内ではゼロ金利政策でかなりの円を市場に供給しているので、これ以上量的緩和を行っても円安になると云うことには懐疑的であった。日本のエコノミストも誰一人として異次元の量的緩和を行うべしと唱えるものもいなかったのである。そして、ついに201110月末円は7535銭の最高値を更新したのである。

超円高がこのまま続けば、日本経済は円高とデフレで早晩立ちゆかなくなると危惧される中、2012年に入り数名のエコノミスト(エール大学の浜田宏一教授等々)から日銀はもっと量的緩和を行うべきであるという意見が出始めたのである。

民主党政権で何ら円高に対する手を打てなかった中、安倍政権が発足しアベノミクスを唱え異次元の金融緩和を進めた結果、あっという間に円高は解消され1ドル=100円近辺になったのである。

あれだけ苦しんでいた円高が為替介入もなく、あっという間に解消されるとは、まさにマジックである。しかし、結果論であるが、円もドルも品物であると考えれば、需要と供給のバランスで物価が決定されるように、円の供給が少なければ円は上がり、供給が多ければ円は下がるのである。自明の理である。

リーマン・ショック発生直後に、米国に相当するくらいの金融緩和を行っていたのであれば、5年間も円高で苦しむことはなかったのではないのか?今頃、過去のグラフの推移をみて気づいていても「コロンブスの卵」であると感じている。

 

 

2013年11月10日 (日)

青春時代の一側面を思い出させる、スター歌手逝く

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私が最も多感であった少年時代から青年時代にかけて、強烈な思い出を残してくれた当時のアイドル歌手「島倉千代子」が亡くなった。島倉千代子がデビューして3~4年間に歌った歌が最も印象に残っている。澄んで透き通るような高音の魅力にとりつかれ、当時ラジオで良く聞いたのを覚えている。

印象に残っているのは、1955年のデビュー曲「この世の花」、同じ年の「りんどう峠」、1956年の「東京の人さようなら」、1957年の「逢いたいなァあの人に」、「東京だよおっ母さん」、1958年の「からたち日記」、「思い出さん今日は」等々である。

これらの歌は、いずれも島倉千代子が10代に歌った曲である。私の歳に重ねると、ちょうど小学校6年生~中学校3年生の頃である。当時は、テレビもなく歌を聴くとすればラジオからだけであったが、何故かしら、島倉千代子の訃報を聞いた途端に、この頃の思い出が急に強く甦って来た。

当時、我が家には親父が手作りした部品むき出しのラジオがあり、エアバリコンを回しながら選曲し歌謡曲を良く聴いていた。住んでいたのは、東京からは遠く離れた島根県の東部、奥出雲の横田であったにもかかわらず、夕方6時頃から9時頃にかけて、電離層による電波の反射状況が良かったのか、東京の文化放送とか日本放送が受信でき、鮮明に良く聞こえていた。昼間は受信できなかったが。

私の親父の職業は、時計屋と兼業で農業を行っていた。もともと機械とか電気をいじるのが大好きで、私が小学校の高学年のころから時計屋をやりながら、趣味でラジオを作っていた。40センチ(横幅)×30センチ(奥行)×5センチ(高さ)位のシャーシを買って来て、それを加工して真空管、コイル、バリコン、トランス、等々を取り付けていた。そして、シャーシの裏側には、ラグ版に抵抗、コンデンサー等々を取り付け配線を行っていた。

子供の頃の好奇心で、親父がラジオを作るのを側に座ってじっと見ていた。今でも鮮明に覚えているのは、パワー真空管の名前である。2A3という名称で直径が4センチ位ある大きな真空管を使用していた。パワーもそこそこ出ていたのでスピーカは口径が30センチの大型でボックスも特注して作ったものであった。

親のDNAを引き継いだのか、私も大学生の頃下宿でラジオを作っていた。当時は、FMのステレオ放送が始まったばかりで、FMチューナとステレオアダプターを作り聴いていた。AM放送に比較し忠実度が良いFM放送を楽しむというより、ステレオになるということ自体がうれしかった。この頃は、真空管も小さくなりミニチュア管を使用していた。トランジスターは、まだあまり普及していなく、市販もほとんどされていなかった。

島倉千代子の思い出に立ち返ると、後年私がシンガポールへ赴任するとき、島倉千代子のCDを借りてきて、C90のカセットテープに26曲録音し持参し、シンガポールで車を運転するときによく聴いていた。この時のカセットテープは、シンガポールから帰任時持ち帰ったので、現在も手元に残っている。島倉千代子初期の頃から、昭和60年頃までのヒット曲が入っている。島倉千代子の訃報を聞き、今またこのテープを取り出して来て、初期の頃のなつかしい曲を聴いている。

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