「会社が消えた日」を読んで、その過程を検証してみた
2014年6月、日経BP社から 「会社が消えた日」 という本が出版された。消えた会社とは、言わずと知れた三洋電機株式会社である。私はこの会社に37年間勤務し、2006年末10年間の海外勤務を最後に退職したのである。
三洋電機の危機が叫ばれ始めた頃、即ち2004年10月の中越地震により、新潟三洋電子の半導体工場が被災、地震保険に入っていなかったことから損害がそのまま損失として計上され2005年3月期の決算は大幅な減収減益となった頃、私は海外にいたので将来的に、まさか会社が消えてなくなると言うようなことなど 全く想像出来なかった のである。
と言うのは、私が担当していた携帯電話は米国のスプリント社からOEM受注を受け、マレーシアの工場で生産し出荷していた。このスプリント社向けのOEM受注は、写メール付き携帯電話の発売により2003年に大ブレーク、対前年比307%の伸びとなったのである。その後も、約150%/年の伸びが続き、2006年には約700万台/年という凄い数量になっていたのである。
日本の主立った携帯電話メーカーが世界の進化から取り残され 「ガラパゴス化」 する中で三洋の携帯電話は孤軍奮闘し頑張っていたのである。2003年には、大東市住道工場の構内に携帯電話専用工場も建てられ、最盛期には三洋電機の営業利益の半分を稼ぎ出す存在となっていたのである。この状況下では、半導体工場が一つ位つぶれたことで 「会社が消えてなくなる」 など全く考えられなかったのである。
しかし、この本 「会社が消えた日」 を読み経過をたどってみると、三洋はもっと早い段階から蝕まれ、少しずつ傾き始めていたのである。タイタニック号が静かに少しずつ沈んでいったように、三洋電機も約11年(2001年~2011年)をかけて沈んで行ったのである。
三洋が傾き始めた原因は何であったのか?一言で言えば、経営陣の判断誤りである。その経営誤りをチェックする機能もなかったのである。内部の取締役は、創業家のCEO井植敏氏に対して適正な設備投資であるかどうかの意見具申や不正決算であることに気づいていたにも拘わらず何も言えなかったのである。
今、盛んに社外取締役の重要性が唱えられている。それは、経営に対して第三者的立場から忌憚のない意見具申が出来る体制が求められているからである。即ち、不正決算のような間違いがあればはっきり 「それは間違いです。」 と言える社外取締役が求められているのである。
三洋が傾き始めたのは、何時で何が原因であったかと云えば、ITバブルがはじけた2001年在庫の評価損計上や工場の減損処理を適切に行わず、結果不正決算になったのが始まりである。この不正決算は以後6年間2006年3月期まで続いたのである。2007年12月にこれを認め、2001年3月期~2006年3月期までの6年間の単独決算を自主訂正している。
ITバブルがはじけた翌年、2002年3月期の電機大手の会社は軒並み大幅な赤字決算となったのである。松下-4,310億円、日立-4,838億円、東芝-2,540億円、富士通-3,825億円、NEC-3,120億円、三菱-779億円、等々である。黒字決算となったのは、当時3Sと言われた、三洋、シャープ、ソニーの3社であった。三洋の場合、CEOの一言 「赤字にするな!」 の結果、不正決算で黒字となったのである。
この黒字決算にしたことが幸か不幸か、世間・マスコミは三洋電機を 「勝ち組」 と呼び、井植敏CEOを 「ナニワのジャック・ウェルチ(GEのCEOで伝説の経営者と言われた)」 と呼びもてはやしたのである。ちょうどこの頃、携帯電話、デジカメ、リチウムイオン電池、等々の事業は好調であり、気をよくしたCEOは見果てぬ夢を見、売上金額2兆円強の企業を10兆円企業にすると豪語していたのである。そして、半導体、液晶パネルに巨額の投資をしたのである。所が、巨額の投資は実を結ばず、残ったのは1兆2,000億円という途方もない有利子負債と不良在庫であった。1兆2,000億円の有利子負債が残ると言うことは、それ以前の投資の失敗も重なったのではないかと私は推測している。
本来の姿としては、2002年3月期の決算は同業他社と同じく、在庫処理を適正に行い 全ての膿を出し尽くす絶好の機会 であったにも拘わらず、それを行わず在庫を残し黒字決算にしたことが、ケチのつき始めで世間からもてはやされたことにより、次の経営判断ミスに繋がったのである。即ち、既にこの頃日本の半導体(汎用半導体)事業は斜陽化していたにもかかわらず巨額の投資が行われ、それが全て雲散霧消化してしまったのである。当然こうした経営判断は、取締役会議で討議されるはずであるが、ここらのいきさつは私には分からない。CEOの独断で行われたのかどうかも?
三洋電機破綻のトリガーとなったのは、2004年10月23日、午後5時56分に発生した新潟中越地震による半導体工場の被災が甚大でと言う説明がなされているが、実際には震災が起こる前に経営は事実上破綻していたのである。
新潟中越地震の翌年2005年3月期の決算は、中越地震による損失870億円を計上したことも重なり-1,715億円という赤字決算となった。この結果、2005年6月井植敏CEOは辞任、野中ともよ氏が会長兼CEOに就任、息子の井植敏雅氏が社長COOに就任したのである。
新しくCEOに就任した、野中ともよ氏は財務内容を知り愕然としたのである。即ち、自己資本に見合わぬ過剰な有利子負債、不自然に積み上がった在庫、不良在庫の評価損計上、工場の減損処理を実施すれば債務超過に陥る危険があったのである。従い、翌年2006年3月期の決算も大幅な赤字2,056億円を計上したのである。
経営に対して全く先行きが見えない中、2006年2月末資本増強のため新株式(優先株式)を発行し、金融3社、大和証券SMBC、ゴールドマン・サックス、三井住友銀行、から3,000億円の出資を受けたのである。
ここから先は、金融3社に経営の実権を握られ、事業の切り売りが始まったのである。2007年10月携帯電話事業は京セラに売却され、1,683人の三洋電機社員が京セラに籍を移したのである。
三洋電機は、携帯電話の他に魅力的な事業として二次電池(特に自動車用リチウムイオン電池)、太陽電池、を持っていた。この二つの技術が欲しかったのがパナソニックである。トヨタも三洋の自動車用リチウムイオン電池に関心を持っていた。残りの三洋電機買収先にこの2社が上げられたが、トヨタにとっては電池技術のためだけに三洋電機を買収するには無理があり、結局パナソニックが買収に動き、株式の公開買い付け(TOB)を実施し、2009年12月10日に三洋の発行済み株式の50.2%を取得したのである。
そして、パナソニックは2010年7月三洋電機を完全子会社にするためのTOBを実施10月に完了、2011年3月に三洋電機の上場が廃止され、4月1日で三洋電機はパナソニックの完全子会社になり消えて行ったのである。
三洋電機が消えてなくなる迄に非常に長い時間を要しゆっくり沈んでいったように思えたが、ことの起こりはほんの一瞬の経営判断の誤りに端を発し、これが致命傷となり消えて行ったのである。