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2016年5月16日 (月)

梅田ロフト5F・大ラジカセ展・・・見学結果と感想

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513日、しばらく出かけていなかった梅田へ久しぶりに出かけた。目的は、ロフトの5Fで開催されている 「大ラジカセ展」を見学することであった。大東洋友会のメール連絡で、ラジカセ展が開催されているとの案内を頂いていたので、チャンスを見計らって出かけたのである。

事前にSANYOのラジカセが10点ほど展示されているとの情報を頂いていたので、多分私が回路設計を担当した機種も展示されているのではないだろうか?と思い期待して出かけたのである。

回路設計を担当したと言っても、今から約35年~37年位 前の話である。しかし、自分が担当した機種は、設計スタートから設計終了し、量産が始まる迄 約10ヶ月間位 その機種のみに専念している為、今でも良く覚えているのである。どんな問題が有り、解決するのに如何に苦労したのか、等々忘れずに記憶に残っているのである。

従い、当時の担当モデル実物を見ることが出来るのは、自分が育てた子供に会いに行くのに似た感覚を覚えるのである。案の定、担当したモデルは3機種 展示されていた。それは、1979年設計の 「MR-V8」、1980年設計の「MRU4SL」、1981年設計の 「MR-88」 である。

それぞれのモデルを見ると当時の記憶が蘇って来たのである。「MR-V8」 に関しては、量産に入っても細々としたトラブルが絶えず、量産工場であった奈良の杉谷電機へ行き、付きっ切りで対策したのである。

丁度、お盆を挟む時季であったが、休みを取るどころか、自宅から会社へ通勤するのではなく、生駒山の裏道 国道168号線を走って、毎日約10日間位 通って量産対応したのである。新製品の売れ行きが良く、商品の出荷催促に対応するため1tロットが終わるまで息が抜けなかったのである。

MRU4SL」 については、プリント基板を初めてCAD対応設計するため、プリント基板会社であるCMK埼玉工場へ出張してCAD入力した。ついでに秩父の山奥にある生産ラインを見学して帰って来た記憶が鮮明に残っている。

このモデルは、名前の通りスリムである為、スピーカの音決めが難しく、部品事業部のスピーカ担当の方に、繰り返し何度も試作をして頂き、薄型モデルにも関わらず良い音に仕上げることが出来た。そして、発売まもなく当時の週刊誌 「平凡パンチ」 に、「薄型ラジカセであるにも関わらず音が良い」 という評判で取り上げられたのである。

MR-88」 は、商品企画段階から話題を呼ぶ仕様のモデルであった。当時ヘッドホンステレオが流行していたが、このモデルはヘッドホンステレオ部分を子機として持ち、親機にはカンガルーポケットがあり、子機をこのポケットに収納できる仕様になっていた。

子機を親機に収納した状態では、普通のラジカセとして使用出来、子機を親機から取り出すと、子機自体ヘッドホンステレオとして使用出来る。即ち、合体した状態で、ラジオからテープへ録音すると、録音された音楽を子機を取り出すことにより、子機でヘッドホンステレオとして聞くことが出来るのである。子機を取り出した親機はスレレオのラジオ受信機として使用可能という商品である。

仕様が複雑であったため、開発段階から種々のトラブルに悩まされ、非常に苦労して開発した記憶が残っている。その詳細は、「三洋技報 1982年 夏号 “MR-88論文” 」 として掲載されているのでここでは省く。文字をクリックすると繋がります。

大ラジカセ展全体の印象としては、入り口の右側の壁に、大ラジカセ展の案内文字の横に三洋を代表する Boombox と呼ばれる大型ラジカセMR-X920の拡大写真が貼られていて、びっくりさせられた。

そのほか三洋モデルとしては、1970年代初期商品、1979年~1985年頃のヒット商品 「おしゃれなテレコ」 U4スリーズ、1985年以降の WCD付きの商品、テレビ付きの商品、等々を含め13機種が出展されていた。どのモデルを見ても、古きよき時代の郷愁をさそうものであった。以下の文字をクリックすると、今回の大ラジカセ展の写真集に繋がります。

大ラジカセ展、三洋ブランド・ラジカセをピックアップした写真集 

丁度この頃、即ち1975年後半~1982年前半の7年間は、ラジカセの他、LED時計付ラジオ (RM-550030周年記念商品の1つに認定された)、薄型ラジオ (iPhone 6とほぼ同サイズ)、LCD時計付薄型ラジオ、等々の回路設計を担当していた時期であり、今から思うと 「私の人生で 3番目に生き生きし、輝いていた時期」 であったと思うのである。1982年後半から電話機の設計に移ったのである。電話機設計時代については、別の機会に述べて見たい。

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