「和せず頑張らず生きる」 という記事を読んで感じたこと
10月8日、日経新聞夕刊 「シニア記者が作るこころのページ」 の 「和せず頑張らず生きる」 という記事を読んで感じたことを述べて見る。今回は、生物学者、池田清彦氏へのインタビューと著書を読んでまとめた記事となっていた。既に、読まれた方は重複しますがあしからず。
池田清彦氏が勧めるのは、「他人に共感しない能力と他人と深く関わらない生き方」 ということで注目したのである。即ち、“時代の空気”
に距離を置く生き方である。
「がんばらないと人並みの生活ができないかのような “時代の空気” があります。書店に行けば自分磨きのハウツー本であふれています。
『やればできる』 とか 『人間はみな平等だ』 という幻想が多くの人を息苦しくしているようです。」
「例えば、統合失調症の人には、孤独に強く、人と付き合わなくても全然苦にならない人がいます。そんな生き方も悪くないないと思います。」
と言うのである。
「がんばっても老化に伴う大概の病気は治りません。その意味では、一番健康に悪いのは長生きです。好きなことをして、うまい酒を飲んで、適当なところでジタバタせずに死んだ方が幸せなこともあるのです。」
とも言うのである。
最近、歳を取って来たからか?何となく池田氏の言うことが理解出来ると感じるのである。私が現役で働いていた30~50歳代頃には、やはり自分磨きのハウツー本に主に目を向けていた。いや、自然にそちらに目が向いたのである。
現役で働いていた時代の自分の物の見方・考え方と言うのは、自分の職業と関係があったのではないかと感じている。絶えず時代の先を行き、人
(あるいは他社) が思いつかないことを先手必勝でやることを追い求め続けられていたので、自然にそうなって行ったのではないのかと、今振り返ると感じるのである。
池田氏は、また東日本大震災以降、広まった 「絆」 という言葉を嫌う。絆と共に 「一つになろう日本」
が合い言葉になった。池田氏は、復興について書いた本の帯に 「一つになるな日本」 と挑発的に書いている。
その真意は、「熊本地震の時もそうでしたが、一丸となって応援しないやつは人でなしだという嫌な空気がありました。応援の仕方は色々なのに、同じ方向でやらないと
『一つの日本』 から外れる。自分が一生懸命やっていることをどうしても他人に押しつけたいという人は多い。でも、強要された支援は長続きしません。」
「被災者を支援するのも老人に席を譲るのも他人に強要することではありません。一方で、他人に愛されたり優しくされたりする権利は誰も持たない。絆という言葉を持ち出して、特定の価値観や道徳を押しつけることはやめた方がいいですね。」
「誰かに何かをしてあげるのは長期的に見て見返りを期待するからだ、という考え方を生物学では、互恵的利他主義と言います。情けは人のためならず、と言うことです。」
池田氏は、日本で最も過激なリバタリアン (完全自由主義者) を自認している。「車も来ないのに赤信号で待っている人はバカである。」
「ボランティアはしないほうが格好いい。」 ・・発言は時にトゲがある。しかし、決して奇をてらっているわけだはない。ルールや道徳についてのわかりやすい考え方が、その言葉には反映されている。即ち、
「交通ルールは事故を減らすためにあります。しかし、ルールを守らせること自体を、人々に強制する装置になることがあります。車の影さえ見えない田舎の横断歩道でじっと青になるのを待つ人は国に従順な人でしょうが、信号無視の車にはねられるリスクが高い人かもしれません。車が赤信号で止まる保証はない。身を守るためにはルールよりも目の前の状況を信用した方が僕はいいと思います。」 そして、
「ボランティアにも同じことが言えます。楽しくてやるのは自由ですが、ボランティアは良いことだ、という国や世間の宣伝に乗せられてやりたくもないのにやるのは下品です。本当に他人に喜んでもらいたいと思っている人は、お金をもらって働くのが一番いいのです。」
とまあこのようにも言うのである。
池田氏の主張にも一理あるな!と思うのであるが、世間体を気にし、人との付き合い(絆)を重んじ、生きている人
(私自身もこの部類に入る) に果たして 「和せず頑張らず生きる」 ということを実践出来るのだろうか?いや、出来ないというのが本音である。
もう、そろそろ年の頃から言って、そういう老境に入いれてもおかしくはないと思うのであるが、他人に共感せず、他人と深く関わらない生き方
は出来ない。どこか山の中にでも閉じこもり、世間の雑音、ニュース、等々が一切入らない環境下で一人暮らしでもしなければ出来ないな!と思う凡人である。
しかし、池田氏の言う “時代の空気” に距離を置く生き方を知った上で、現在の自分の生き方に “プラスα” をして生きて行けば良いのではないかと思うのである。