今年最初の喪中のハガキ・・・少しショックを受けた
11月に入り、年末年始恒例の年賀状をやり取りする季節がやって来た。それは、11月1日の年賀状発売から始まった。そして、引き続くのは喪中のハガキのやり取り、年賀状の作成・送付、年賀状の受け取り、等々である。
11月10日、今年最初の 「喪中ハガキ」 を受け取った。例年、喪中のハガキを受け取るが、通常は年賀状をやり取りする相手の方の親族が亡くなったことにより、新年の挨拶を失礼させてもらいます、と言うのが一般的である。
従い、喪中のハガキを受け取ったからと言って、何ら特別な感情を抱くことはないのである。所が、今年
「最初の喪中のハガキ」 は違っていた。年賀状をやり取りする直接の相手、即ち 本人の喪中ハガキであった。
受け取った瞬間、「驚き桃の木山椒の木」 と言う感覚に陥った。あれ!と言う思いのほか、二の句が出なかった。通常、本人の死に付いては、喪中のハガキを受け取る前にメールあるいは電話
等々で情報が入って来るからである。
喪中の本人は、「矢野敏彦氏」 である。三洋電機で電話機の設計業務を同じ職場で行っていた、同僚・友人であった。そして、年齢が72歳 と私より1歳4ヶ月も若く、まだまだ亡くなるような年齢ではないと思っていたから、余計に驚きを感じたのである。
矢野敏彦氏とは、国立国会図書館で行われる 「市民公開講座」
で良く顔を合わせていた。例年、3日間行われる講座の中、どこかでお会いし旧交を温めていたのである。時には、隣に席をとり一緒に講座を聴講する事もあった。
今年も、9月1日、8日、15日、と3日間 講座が開講され、私は3日間参加した。参加する度に、今年も矢野さん来ているのかなと、広い会場(1階~3階)を見渡し探したのであるが見つからなかった。今年は、どうしたのかなと少し淋しい気持ちになっていた。
矢野敏彦氏が亡くなったのが10月23日であり、9月の前半と言えば亡くなる約1ヶ月前半前であり、講座に参加する所ではなかったのだろうと、後から推測したのである。
喪中のハガキを受け取ってから、すぐに矢野家に電話を入れお悔やみを申し上げた。死に至った状況を確認したところ、昨年の11月に肺がんを発病、今年の1月に手術、その後は抗がん剤治療を続けていたとのことであった。非常に短い闘病期間の末、あっけない幕切れであったようである。
矢野家との思いでと言えば、矢野敏彦氏の父親 (敏彦氏に取っては義理の父)
が亡くなった時、富山で葬式が行われた。冬の寒い時季 (1月末か2月初め頃)
であったが、職場を代表して日帰りで葬式に参列した。
その時の想い出が強く残っていたので少し話をさせてもらった。富山は雪国であり、雪かきをした雪が道路の路肩にたくさん積まれていた。しかし、葬式はどこかの葬儀会館で行われ、暖房が良く効いていて、寒さを感じる所か快適な中で行われたのが印象に残っていた。
三洋電機の同僚に関わらず、私と歳が近い友人・知人が亡くなる度に淋しさを感じる。次、いつ私の番が回って来てもおかしくない年齢にさしかかっているのだな!とつくづく感じるこの頃である。
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