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カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2019年7月 3日 (水)

故郷奥出雲に関連する二人の先輩の静かなる活動・・・人生の指針としたい

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先日、2019年6月25日に故郷奥出雲に住んでおられる先輩から二冊目となる句集「雪の峰」が送られて来た。何の前ぶれもなく、送られてきたのである。この先輩にとってこの句集は、平成24年から平成30年にかけて詠まれた三百二十七句をまとめて発刊されたものである。

一冊目の句集「あしたの花」は平成24年5月に発刊されたもので、この時は自分史「蝉の声」と同時に頂いた。その後、7年間継続して俳句を詠んでおられたのである。私自身としては、その後継続して俳句を詠んでおられるとは認識していなかったので少しの驚きであった。

この句集の中身について少し述べて見る。句集の最初に出て来るのは、平成24年作の48句でタイトルは「柳絮とぶ」である。具体的に最初の句を引用すると、「身にあまる暮らしありけり柳絮とぶ」である。

私は、俳句に関して言えば全く素人であり、「柳絮」 と言う単語が読めなかった。辞書で調べて初めて 「りゅうじょ」 と読むことを知った。ましてや意味も分からなかった。

「柳絮」とは、白い綿毛のついた柳の種子。また、それが春に飛び漂うこと」である。柳と言うと、枝垂れ柳が思い浮かびますが、絮(じょ)が飛び漂うのは、立柳、川柳、の種子のようです。

柳絮が飛び交う動画を見ると、まるで雪が降っているように見えることから、雪の形容にも用いられるようです。また、「柳絮の才」と言えば、非凡な才女のたとえで、女性のすぐれた文才を褒める時に言う言葉のようです。

この先輩は、私より六つ年上で既に八十路を越えておられますが、人生を粛々と元気に生きておられる。こんど奥出雲へ帰ったら是非立ち寄ってお礼を申し上げたいと思っている次第です。

 

もう一人の先輩は、奥出雲横田にある私の実家から100m位離れたところに実家があった先輩です。今は東京の八王子市に住んでおられる。この先輩は、私より10歳年上で八十路の半ばに差し掛かっておられます。

この先輩と知り合ったのは、平成25年(2013年)の関西稲陵会でした。先輩とは、実家が近かったこともあり、横田での家の繋がりとか、先輩の長兄が音楽の先生であり教わっていたこと、等々いろいろ話が弾みました。

稲陵会が終了した後、すぐさまこの先輩から一冊の本が送られて来ました。それは「高橋一郎と奥出雲の人・歴史・文化」と言う先輩の長兄である高橋一郎氏の生前の活躍をまとめられた私家本です。

高橋一郎氏が高橋家を継いでおられましたが、8年前(2011年)に亡くなられ今は後を継ぐ人がおられず、10代続いた奥出雲横田の名門の家系が途切れようとしています。

例え、高橋家が奥出雲横田から消えても高橋一郎がこの地で生きていたと言う証を残しておきたいと思い、この記録を作成することを思い立ちました。と言うことで編集されたA4サイズで375頁にわたる堂々とした書籍です。

その後、この先輩とお会いして話をすることはなかったのですが、毎年年賀状を取り交わしています。年賀状を見て驚かされるのは、前年に発刊された書籍と数首の短歌が記述してあることです。

発刊された書籍は、ある年はかなり長文の物、原稿100枚程度の年は数冊、平均すると毎年2冊程度発刊されています。そして詠まれた短歌は、平成30年(2018年)に万葉集を超えて5千首に到達したようです。

八十路を大きく通り越して、なおかつこの創作意欲・バイタリティーはどこから来るのだろうか?毎年年賀状をもらう度に敬服致しております。また、年賀状をもらうのが楽しみの一つとなっています。

 

以上述べた二人の先輩が活動(知的生産活動)されている分野は、私が活動をしている分野とは少し異なりますが、自分の活動を自慢するわけでもなく、粛々と活動を続けられている態度を見ると、見習いついて行きたいと思う次第です。

しかし、両先輩と比較すると10歳、6歳も若いのにもかかわらず、年を取るにしたがって体力的にきつく感じるようになり、思うように自分の活動が出来なくなり、自分自身にもどかしさを感じるこの頃です。これも自然の摂理であり仕方がないのかな!と思っています。

2015年3月13日 (金)

『昭和40年男』 という雑誌・・ご存じでしょうか?ラジカセを特集!

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雑誌 『昭和40年男』 とは、昭和40年(~413月) 生まれの男性のための情報誌です。創刊号は200911月に発売、その後 奇数月の11日に発売され、最新号は311日に発売されたVol.30です。私もこういう雑誌が存在することなど全く知りませんでした。雑誌の概要説明Web.ページへは、以下の文字をクリックすると繋がります。

『昭和40年男』 という雑誌の紹介 Web.ページ

ことの始まりは、ある一通のメールを頂いたことから始まりました。1月28日、(株)クレタ 『昭和40年男』 編集部の副編集長という方から雑誌の取材にご協力いただけないかという申し入れから始まりました。

雑誌 『昭和40年男』 についての説明の後、次の昭和40年男3/11発売号にて ラジカセを大きく取り上げたいとの事でした。昭和40年男はラジカセでエアチェックしていた世代であり大変人気のある企画 であり、特集記事の一つとして、各メーカーのラジカセに関わっていた関係者の方に当時の話を聞き記事を作りたいので協力お願い出来ないか?ということからでした。

私のHPを見て当時 (昭和55年前後の頃) ラジカセの設計業務に携わっていた事を知り、この問い合わせに繋がったようです。何せ約35年前のことであり、 “当時のことはあまり覚えていないかもしれませんが、記憶に残り覚えている範囲でOKあれば取材に協力致します” と返事を返しました。その後、取材したいポイントがまとめて送られて来て、電話取材に応じたわけです。

35年前といえば、年齢も35歳前後で、当時設計に携わっていたラジカセモデルとしては、昭和54“MR-V8” 、昭和55年 “MR-U4SL(スリム)”、昭和56年 “MR-88”・・飛び出せテレコ88、等々であり、今思えば非常になつかしく郷愁にかられる想いを蘇らせてくれました。

『昭和40年男』 311日発売の最新号の概要説明Web.ページは以下の文字をクリックすると繋がります。

『昭和40年男』 3月11日発売の最新号の紹介Web.ページ

この最新号では、特集 “興奮のラジカセ” という事で各社のラジカセが取り上げられています。三洋のラジカセとしては、“MR-X20”・・BigBen、“MR-X920”、“MR-U4SF”、“MR-WU4”、“MR-Q4“、“MR-9600”、“MR-88”、等々が載っています。

ラジカセメーカーのページではなく、「ラジカセがヒップホップに与えた影響」 という対談記事の中のバックグラウンドに対談者が持って来たというラジカセとして、“MR-V8” が飾られています。対談の内容であるヒップホップに関しては、全くチンプンカンプンですが、写真の中にさらりと出て来る “MR-V8” が非常に気に入りました。3カ所も出て来ています。

世の中不思議なもので、思いがけない事が、思いがけなく起こるとはまさにこの事、遠い昭和の出来事がノスタルジックに想い出され、昭和40年男という雑誌の企画に感謝している次第です。

雑誌の最新号は、(株)クレタパブリッシング社から、「企画に協力頂き有り難うございました。」 ということで発売日に1冊送付頂きました。

『昭和40年男』3月11日発売号で紹介されている三洋ラジカセ

2014年8月 4日 (月)

身近な先輩の自分史を読んで感じたこと

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先月720日、甥の結婚式出席のため、鳥取県西伯郡大山町にあるプリムローズガーデン(森と水の教会)を訪れた。その帰りに故郷奥出雲町横田へ寄った。かねて横田へ帰省した時は、渡したい物があるので是非寄ってほしいと言われていた親戚の家を訪問した。

そこには、教員を退職し現在一人暮らしの女のM先生が老後を悠々自適、晴耕雨読、と言った感じで生活されていた。私より6歳年上であるが、とても元気でいきいきと生活されていた。訪問すると、応接室に通され抹茶を入れて頂き、何十年も訪れていなかったのでアルバムを見ながら世間話をした。

その後、居間に通されM先生の著作である2冊の本をサイン入りで頂いた。1冊は、「蝉のこえ」 という自分史である。もう1冊は、「あしたの花」 という句集である。この句集は、平成11年句会に入会され、その後平成23年までの12年間に読まれた句から、321句を選び1冊にまとめられたものである。

M先生は、約20年前に山陰中央新報社主催の文化教室、自分史講座を受講されていたのである。この自分史 「蝉のこえ」 を発刊するに当たり、文化教室の先生であった人から 「刊行によせて」 という前書きが記されていた。この前書きによると、「受講生の皆さんは熱心であったが、自分史などというものは、そう簡単に書けるものではない。多くの人はギブ・アップするものである。」 の記述があり、M先生もギブ・アップされたのではないかと思われていたようである。

この自分史 「蝉のこえ」 は、時系列的に出来事を羅列するのではなく、強く印象に残っている人生の一コマ一コマをエッセイ風にその時々にあった題を付して述べられているのである。

これを読んで直感したことは、自分史とはこういう風に書けば、ただ単純に記録というだけでなく、興味を持っておもしろく後生の人々も読めるのではないかな!と思ったのである。

過去の自分史とは、何らかの意味で成功した個人の立志伝的なものが多かったが、最近の自分史は平凡に生きてきた人々が一生懸命生きてきた証しとして、生き様を綴ったものが増えて来ている。自分の生き様を後生の親族あるいは関係者に伝えることにより参考にしてもらい、後生の人々も一生懸命生きて行ってほしいという願いが込められているのではないかと感じるのである。

そう解釈して読むと、M先生は人生の大半を終えられたいま、自分が生きてきた人生の集大成として、自分史をまとめ上げられるという大仕事を成し遂げられたのであると思っている。

自分史を書くとすれば、年齢的には70歳代前半に書き始め、終わるのが理想的ではないかと思っている。70歳代前半であれば、記憶力、思考力、洞察力、と言った能力がまだまだそれほど衰えていないからである。

日本人男性の平均寿命も伸びて80歳を越す迄になったが、私の現在の健康状況を鑑みると、とても80歳まで生きられるとは思っていない。何とか、健康で自立した状態で喜寿まで生きることが出来ればというのが関の山である。従い、70歳代前半が重要であると感じている。

私が自分史を書こうとすれば、今まさに旬の時期であるが、何故かしら今すぐに書く気にならない、いや熱が入らない。私は、ホームページで 「活動記録」 という項目を設け、時系列で出来事を記述しているが、この出来事の中で特に印象に残っている項目を選び出し、文章を追加して行くことから始めてみようかと思っている。そのうち何か良いアイデアが浮かんで来るかもしれない。

10月26日 以下の記事を追加

10月22日付けの日本経済新聞夕刊に、自分史に関する記事が載っていました。題名は、“シニア「自分史」に熱”で、人生にけじめをつけるために書く人が増えているようです。以下の文字をクリックすると記事に繋がります。興味ある人は、読んで見て下さい。

日経記事 “シニア「自分史」に熱”