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島根・奥出雲 横田高校・第42期生196名は1962年(昭和37年)3月、友情と絆を育み、夢と希望を持って、卒業し次のステップへと巣立って行きました。爾来55年が経過、 2016年秋を迎え、青年であった若者も今や老年(73歳)となり、人生の最終章へと進んで来ています。
55年という歳月が経過する中、残念ながら道半ば、夢半ばで逝かれた方々が既に36名の多き を数えるに至っています。ましてや、50歳代前半or 50歳代中半、という人生の最盛期に逝かれた方々は悔いが残る人生ではなかったのでは!と推察致します。
今回の55周年記念同窓会に出席される方々は、それぞれの人生を順風満帆に渡って来られ、これから先もまだまだ青春時代
(健康寿命を維持している限りは青春だ) として生きて行かれることだろうと思います。
しかし、これから先の人生は、新しいことを始める、新しい遠い旅に出かける、新しい出会が待っている、ということよりもむしろ
「過去の出会い」 あるいは 「自分が築いて来た無形の財産」 を振り返り、記憶を蘇らせ、楽しかった頃、を懐かしみながら歩んで行けば良いのではないだろうか!と思っています。
そこで、私に取って強烈なイメージと共に記憶に残っている事柄 あるいは 無形の財産・宝物を上げてみました。
1.シンガポールへ赴任してから5年目に当たる2001年は、喜び・感動・感激・驚愕 に値する事柄が多く発生し、今でも強烈な印象で残っている1年でした。
1月 旧正月休みで帰国時、前年の秋急逝した竹馬の友
「小川孝美君」 のご佛前へ礼拝・・・残念無念
4月 長女の結婚式 出席で休暇を取り帰国、同時に
勤続30周年記念旅行券 で旅行・・・喜び・感動・感激
8月 父の7回忌 で帰国、帰りのJAL便の機内誌で 「イチローのレーザービーム」 記事を読む・・・・感動・驚愕
9月 仕事の出張で帰国、帰星前夜
「同時多発テロ勃発」 かつて訪れた ワールド・トレード・センタービル崩壊 ・・・驚愕
11月 横田高校卒業40周年記念同窓会
出席で帰国・・・感動・感激
2.1997年~2006年 (53歳~63歳) に渡る10年間の異国での生活体験。赴任した国はシンガポール、元々望んでいた国であり、赴任することに何の躊躇もなかった。改めて振り返ってみると、自然環境、社会環境、生活環境、の素晴らしさに感謝する10年間であった。少し例を上げてみると、
自然環境ではシンガポール島は岩盤の上に出来た島であり地震がない。赤道直下であるため台風が来ない。最高気温34℃、最低気温24℃、気温差が僅か10℃の常夏であり、半袖シャツで一年中通せると言う長所。逆に、四季がないと言う短所でもあった。
社会環境では、道路網が発達し整備されているが、車の絶対数が制限されているため、交通渋滞がなくスムースに流れる。車通勤はもとより、シンガポール島内を通してマレーシアのジョホール・バルにある工場とシンガポール空港間を結ぶロジスティック
(部材の輸入と完成品の輸出) に多いに役だった。自家用車の値段が高いのが欠点であった。
生活環境では、複数の日系百貨店の地下に日本の食材が自由に手に入るスーパマーケットがあり、ほとんど日本に いる時と変わらない生活が出来た。外食環境も良く、昼食は日本食レストランに行くのが楽しみだった。まさに、シンガポールでの生活体験は、宝物として残る無形の財産となっている。
3.2013年5月、大学時代の同窓会に初めて出席した。今まで、大学の同窓会には出席したことがなかった。今回、2年先輩の 槇原昇氏 から 「伊藤先生を囲む会」 への案内状を頂いた。伊藤先生は、当時助手であったが、私の直接の指導教官でもあり、既にご高齢でもあることから、今回出席しなければ悔いが残ると感じ、出席したのである。
幸い、伊藤先生とは実に50年振り (半世紀振り) に再会 することが出来た。良く覚えていて頂き、感謝・感激したのである。多分、大学の同窓会も今回が、初めてで最後になるのではと思っているので、印象深く記憶に残っている。
詳細は、“初めて出席した大学同窓会の感想”
に記述、文字をクリックすると繋がります。
4.2014年10月、関西よこた会、関西奥出雲会、の設立・運営にご尽力された 米田守之氏が73歳という若さでご逝去。尼崎市の市会議員、市会議長、等々をなされている傍ら、関西の都市と 「ふるさと横田・奥出雲」 との交流の架け橋を作られ 「ふるさと発展に寄与」 されていた。
私は、米田氏と実家が近く良く知っていたので、いろいろと声をかけてもらい手伝いをさせてもらった。その財産として、関西よこた会
「20年の歩み」、「20周年記念総会」 というDVDが残っている。
また、この両会で米田氏と共にご尽力頂いたのは、坪倉修吉先生 であり忘れることは出来ないのである。坪倉修吉先生米寿祝い
(2013年2月) を行った時も米田氏がコーディネターとして活躍された。この時の財産として
「その足跡をふりかえる」、「お祝いの会 記録ビデオ」 というDVDを残したのである。
5.2016年5月、実に47年振りに名古屋を訪れた。かつて私は、1966年4月~1969年9月迄の3年半この街に住んでいた。千種区大久手にあった新白砂電機 (以下 シルバー
と呼ぶ) に勤めていたからである。シルバーを退職して、三洋電機に転職し大東市に移ってから、ご無沙汰をしていた。
所が、2015年の暮れ、“瓢箪から駒が出る” (文字をクリックすると繋がります) に遭遇、シルバーのその後の状況を知った。会社は既になくなっていたが、元の社員の結束と繋がりは強く、今でも年に一回
「シルバーOB会」 が開催されているので、出席しないかと言うお誘いを頂いたのである。最初、少し途惑いを感じたが、こんなチャンスは二度と来ないだろうと思い、出席した。まさに、現代の浦島太郎物語に似た人生終盤期の無形の宝物となったのである。
詳細は、“シルバー会に出席した感想” に記述、文字をクリックすると繋がります。
さて、ここまでの人生、何とか自分が思い描いて来た人生スゴロクのように生きて来られた。しかし、これから先の人生どう生きて行けば良いのだろうか?体力的な衰えが目立つこの頃であり、いつ寿命が来てもおかしくない。従い、これから先は一年一年が勝負であり、一年無事で過ごせたら、又次の一年と、命を繋いで生きて行くしかないと思っている。
そうした生き方をする中にも、生きて行くキーワードがあり、それは 「健康寿命の維持」 と
「知的生産活動」 である。この二つを失ってまで長生きはしたくないと思っている。この二つのキーワードを維持して生きられるのは、あと数年ではないのだろうか?残りの人生を大切にしたいと思うこの頃である。