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カテゴリー「記念同窓会」の記事

2020年12月 3日 (木)

28年前の同窓会ビデオを入手・・・動画で見るのは初めて感動した

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11月中旬、埼玉県に住む同級生の友人から28年前に撮影されたビデオを入手した。まさか28年前の同窓会でビデオが撮影されていたことなど全く知らなかったので驚きであった。

ビデオの詳細は、1992年8月14日に行われた 「横田高校第42期卒業生、卒業30周年記念同窓会」 を撮影したビデオであった。私が、48歳の時のビデオである。当時はDVDなどなくVHSテープで撮影されていた。

友人によるとビデオの原本となるVHSテープが見つかり、業者に依頼しクリーニングしてDVDに変換してもらったとの事でした。

28年前の1992年8月と言えば、歌島工場で仕事をしていた時代である。海外向けのコードレス電話の開発・設計を担当していた。人生で一番充実していて忙しく、帰宅は毎晩11時~12時頃であった。海外出張も多く、米国、欧州、アジア、豪州、等々へ出かけていた。

過去、当時の同窓会の集合写真、スナップ写真、等々は何枚かもらって見ていたが、何も感動する程のこともなかった。

今回の動画を見たら何故かしら感動させられた。何故感動させられたのかと言えば、同窓会当時元気であったが、その後3年~10年以内に親しくしていた友人が数名若くして亡くなっていた。

所が、この動画では元気であった頃の姿を見る事が出来、昔の姿を想い出して目頭が熱くなったのである。

動画が撮影された28年前(48歳時)の姿と28年後の現在(77歳時)の姿を比較して見ると、私自身を含めて姿形が大きく変わっている。

当時を想い出すと同級生と言えば、私と同じく人生の真っ只中で活躍していた仲間であり、皆若くはつらつとして見えていた。28年経過する間に同級生の姿形のみでなく、世の中が大きく変化していた事に改めて気付かされたのである。

当時はパソコンも未だあまり普及してなく本格的に普及し始めたのはWindows95が発売された1995年頃からである。

私がインターネットを使用し始めたのも、シンガポールへ赴任した1997年頃からである。IBMの小型ノートパソコンThinkPadを購入して持参したのを良く覚えている。

その後の技術の進歩は目覚ましく、5~7年毎にコードレス電話、携帯電話、スマートホン、そして通信速度も3G、4G、5G、へと変化して行っている。今後も日進月歩で技術革新が進んで行くだろうと思っている。

2018年11月11日 (日)

横田中学校(出雲横田)関西在住・第12期生同窓会・・・3年振りに出席した

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2018117日、横田中学校(出雲横田)、関西在住、第12期生の同窓会が難波の 「ちとも」 で開催され、3年振りに出席して来た。我々同窓生は、昭和18年(1943年)生まれで今年75歳の後期高齢者になる。

と言う事は、年が明けて2019年になると数え年の77歳 即ち 喜寿を迎えることになる。古希の同窓会(20126月)から早7年が経過するのであるが、ここまでなんとか無事で来られるとは予想していなかった。

と言うのは、古稀の同窓会以降いくつかの大病を経験したので、同級生、会社の同年配の同僚、等々の訃報を聞く度に、自分の番がいつ回って来てもおかしくないな!と感じていたからである。

古希の同窓会以降、第12期同窓生で亡くなられた方々は7名を数えるのである。全体で言うと卒業時108名であったのが、既に29名の方々が亡くなられ、物故者の総数は3割近くになっている。

同窓会時の話題は、過去10年位前までの大阪で開かれた中学同窓会の話で持ちきりであった。既に亡くなった同窓生と共に横田へ帰って桜の花見会に出席、翌日亡くなった友の車で横田町を散策し、途中で東條工芸へ寄った時の話、等々に花が咲いた。

以下は、当日 「ちとも」 の前で写した写真である。その次の写真は、2009419日花見の会で横田へ帰省、翌日東條工芸に寄り写した写真である。

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              2018年11月7日 横田中学校第12期生 同窓会 於:ちとも (写真クリックで拡大)

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              2009年4月19日 横田中学校第12期生 於:東條工芸 (写真クリックで拡大)

昔の同窓会の話の続きとして、同窓会終了後自宅へ帰ってから、大阪で最初に開催した横田中学校第12期生の思いでとなる過去の写真をひもといて見た。大阪で初めて開いて同窓会は、今から38年前の1980年(昭和55年)217日であった。

当時を振り返って見ると、この時出席していた仲間は全員で13名であった。しかし、2018117日現在このうち4名が亡くなり、2名の方が病気療養中で同窓会等には出席出来ない状況である。

月日の経過は過酷であり、友をも連れ去って行くのかと思えば、生きている現在一日一日をより有意義に過ごさねばと言う思いが強くなって来るのである。

以下は、1980年(昭和55年)217日 大阪で初めて行った 横田中学校第12期生同窓会 の写真である。

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            1980年2月17日 横田中学校第12期生 同窓会 於:大阪パークホテル (写真クリックで拡大)

2018年9月11日 (火)

関西稲陵会・創立60周年記念総会・に参加した雑感

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201899日(日)、例年通り 関西稲陵会 (島根県立横田高校・関西OB会)が道頓堀ホテルで開催された。今年は、関西稲陵会創立60周年記念総会と銘打っての開催であった。

関西稲陵会が開催される直前、94日に関西地方は大型の台風21号がど真ん中を通過すると言う自然災害に襲われていた。台風21号は大型の台風で、関西国際空港での最大瞬間風速は58.1mを記録して甚大な被害を与えた。

台風による強風被害・高潮被害に加えて、関空へ航空機燃料を陸揚げしたタンカー「宝運丸」 (長さ89m、2,591トン) が東へ2.4km移動した所で、約25トンのイカリを下ろして停泊していたところ、強風で北に流され、連絡橋に衝突すると言う事故が発生した。

この結果、連絡橋の橋桁が大きくズレ片側の車走行車線が使用出来なくなった。ズレタ橋桁は、鉄道路線にも影響を与え、すぐには復旧が難しい状態となった。これにより、関空は海外路線が実質長期使用出来ない状態となり、インバウンドの観光客に影響を与え、海外からの観光客が激減しているのである。

関西稲陵会に出席するため、大阪環状線から近鉄線に乗り換え、近鉄難波駅で降りて、上の通路に上がると、地下通路の人通りの様子が明らかに違うのである。御堂筋から道頓堀通りに入ると、ここでもいつものインバウンド客でごった返しているイメージとかけ離れ、何か閑散としていたのである。

道頓堀ホテルも、いつもはインバウンドの観光客であふれかえっていたのであるが、9月9日の日はインバウンドの客がほとんどいなく、以前の海外観光客がいない時の状態に戻って来ていると感じさせられたのである。

台風21号が関西空港にダメージを与え、それによるインバウンドの観光客が激減していると言う事を肌で感じさせられたのである。同じ大阪と言っても、私が住んでいる交野市ではこう言うことを感じることはないからである。

話が少し横道にそれてしまったが、本来の道筋に戻して、関西稲陵会60周年記念総会について述べる。今回、関西稲陵会記念誌が発行された。

それを読むと、一口で創立60周年と言うけれども、設立当初の諸先輩方々の 紆余曲折の苦労と努力 が実を結び、その結果何とかここまでこぎ着けられたのだな!との思いを感じたのである。

私が、関西稲陵会に参加し始めたのは、関西稲陵会の道筋がはっきり見えてきた、平成元年 創立30周年記念総会1989910日) の時からです。

平成5年 (1993年) から一時学年幹事をしていましたが、平成9年 (1997年) 海外赴任が決まり、平成18年 (2006年) までの10年間日本にいなかったので、関西稲陵会へ出席することは出来ませんでした。

海外赴任が終了した平成19年 (2007年) から、再び関西稲陵会へ出席し始めました。それからでも既に12年が経過しました。平成19年 (2007年) 以降については、私のホームページの稲陵会という項目で詳細を記述しています。次の文字をクリックすると繋がります。参照頂ければ幸甚です。

          関西稲陵会ホームページ記事

我々42期生は、参加各期のメンバーの中で 常に最も多い参加者 となっています。これもひとえに学年幹事を長い間務めて頂いている杠正明幹事の熱意のたまものであるといつも彼に感謝をしています。

そして、42期生と言う同期の絆の強さ がここまでこう言う結果に結びついているのではないだろうか!と思っています。稲陵会のみならず、42期生のみで行う同窓会についても、卒業20周年、30周年、35周年、40周年、45周年、50周年、55周年、と開催されて来ています。2021年には卒業60周年の同窓会が予定されています。

開催場所も、出雲横田2回、松江2回、大阪2回、広島1回、といろいろな場所で行われています。次の60回目はどこで行うのかまだ決定していませんが、何とか元気で出席したいものであると思っています。

世の中、少子高齢化で横田高校も生徒の数が減る一方となって来ていますが、何とかこれを克服して頂き、長く関西稲陵会が続けられることを願うものです。最後に、集合写真を二つ載せます。文字をクリックすると繋がります。参照頂ければ幸甚です。

         参加者全員の集合写真

         42期生の集合写真

2017年9月12日 (火)

2017年度関西稲陵会「集いの会」へ・・・出席した雑感

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2017910日、今年も例年通り、関西稲陵会 「集いの会」 が道頓堀ホテルで開催され、無事出席して来た。と言うのは、今年4月に脊柱管狭窄症になり、約3ヶ月間歩行に困る状態に陥っていた。従い、4月~6月迄の3ヶ月間は全ての行事に参加するのをキャンセルしていた。

この3ヶ月間はもっぱらリハビリ (ストレッチと歩行訓練) に専念していた。懸命のリハビリの結果、3ヶ月を過ぎた頃には元の7割程度まで回復して来たので、7月の会合から一部参加し始めた。稲陵会の案内をもらった時には、この分だと多分出席出来るだろうと判断して参加の連絡をしたのである。

稲陵会に関しては、1989年 (平成元年) 頃からずっと参加して来た。いつの頃からか定かではないが、学年幹事を引き受け出席の世話役をしていた。所が、1997年 (53歳) から海外赴任が決まり、2006年 (63歳) 迄の10年間 日本を空けることになり、その間出席は出来ない状態となった。

次に出席し始めたのは、海外赴任から帰国した2007年からである。この時は、既にフルタイムの仕事は止め、非常勤講師として小学校の理科支援員という仕事のみを引き受けていたので、時間的余裕があり、ホームページ作成、ブログ開始、DVDムービーの製作、等々の活動をし始めていた。

2007年から今年2017年迄の稲陵会に参加してきた記録は、私のホームページ 稲陵会の項目 に詳細が記述されているので参照頂ければと思います。次の文字をクリックするとその記録に繋がります。

      ホームページ  “稲陵会”

関西稲陵会は、今年創立59年であり、来年60周年を迎えます。その前段階として、会の名称が今年から、「稲陵会関西支部」 → 「関西稲陵会」へ変更されました。既に、来年の60周年記念に備えていろいろと準備が進められているようです。協力出来ることがあれば協力したいと思っています。

とは言っても過去約3年前頃からいくつかの大病を経験してきた私にとって、先の事 例え1年先でも予測不可能なのが私の体調であり、あまり先々の事まで考えないようにしているのが、現在の心境です。禅的な言い方をすると、自然に逆らうことなく、全て運命に任せきって、一瞬一瞬を大事にするという生き方をしています。

一方、母校である横田高校は、2019年に創立100周年を迎えるそうです。既に100周年記念事業・行事を行うための実行委員会が組織され、活発に活動が行われているようです。関係者の努力により、盛大に行われる事を期待する次第です。

学校の運営の方は、時代の流れである少子高齢化に伴い、これから先 生徒数が激減して行く事が予想され、5年先、10年先の姿をどう描いて行ったら良いのか?関係者にとって難しい課題が突きつけられているようです。行政が絡むことで有り、一筋縄では行かないだろうなと思っています。

以上が、2017年度 関西稲陵会 「集いの会」 に参加して感じた雑感です。

2016年11月19日 (土)

高校卒業55周年記念同窓会に出席した感想

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20161116日~17日に渡って開催された島根・奥出雲 横田高校・42期生 卒業55周年記念同窓会に無事全行程参加することが出来ホット一息つくと同時にご尽力頂いた幹事の方々に感謝致しています。

今回の同窓会は、いつもの開催地ではなく場所変えて広島市で行われた。懇親会の後、ホテルの近くにある広島県民文化センター(鯉城会館)に場所移し、「広島神楽」 定期公演の出し物を鑑賞をした。

そして、翌日は平和公園・船乗り場(元安橋桟橋)発の 『ひろしま世界遺産航路 リバークルーズ』 で宮島へ向かい、厳島神社、大聖院、紅葉谷、等々の観光、お別れ昼食会は宮島の 「錦水館」 で行い、終了後再びリバークルーズで荷物を預けていたホテルに帰り、午後245分頃解散となった。

我々、横田高校42期生は過去、5年ごとに記念同窓会を開催して来た。前回の50周年記念同窓会は、20111120日~21日に行われたが、その後2014年に大病を二つした為、この後の同窓会への出席はとうてい無理だろうと思っていた。

所が、あれから2年が経過し、体調も少し落ち着き安定して来た。しかし、寄る年波には勝てず老化現象の方は進む一方であったが、今回の同窓会には何とか出席出来るのではないだろうか?と自問自答しながら出席の返事を返した。

会場に着き参加の受付を済ませ、資料をもらうと参加者は40名と前回と比較し22名少なく、更に物故者も36名と前回より10名も増えていた。68歳→73歳へ移る5年間というのは、人生にとって厳しさが増す頃であると感じた。同窓生のみに限らず、一緒に働いていた会社の同僚の亡くなる年齢でも72歳前後に一山あり、同じ事が言えるのかな!と思った。

出席者が減っている事に関しては、近況・所感 等々を読むと、本人が具合悪く出席出来ないのと、家族の面倒を見なければならず出席出来ない、という理由が非常に多く、やむを得ない年齢に差し掛かっているのかな!と感じるのである。

話変わって、懇親会のあと見学した 「広島神楽」 の出し物は、今まで見たことがない演目であり、第一幕は「三浦」、第二幕は「鍾馗」、であった。

「三浦」は、下野国の那須野ヶ原に悪狐が立ちこもり、庶民を苦しめていた。そこで時の天子が伊豆の大将、三浦之助と上総之助に悪狐を退治するように勅命を下し退治する物語である。

「鍾馗」は、中国や日本に伝わる魔除けの神様です。須佐之男命の化身が鍾馗大神と名乗り、民の命を奪おうとする姿なき大疫神(疫病の神)と戦い、左手に持つ「茅の輪」で捕らえ、右手の剣で退治する物語である。

この二つの演目については、予めレジメを読み理解していたつもりであったが、実際の神楽を見る限りストーリー通りに進んでいるのかどうか?良くわからなかった。事前の予備知識なしでは、理解しづらいのでは?と感じた。

翌日の宮島観光は、天候にも恵まれ非常に良かった。厳島神社へ来たのは、小学校の修学旅行以来であり、社殿の中を見学するのは、初めての感覚と同じであった。紅葉谷は、紅葉真っ盛りの時期であり、快晴の中赤く染まった紅葉が非常に鮮やかに感じられた。

お別れ昼食会、最後の挨拶で次回60周年記念同窓会も行おうと言う呼びかけがあり、満場盛大な拍手で終わったが、その時の年齢は満78歳であり、果たして元気でついて行けるのだろうか?自信なく感じた次第であった。

2016年11月14日 (月)

2016年11月16日・・・横田高校卒業55周年記念同窓会・寄稿文

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島根・奥出雲 横田高校・第42期生196名は1962年(昭和37年)3月、友情と絆を育み、夢と希望を持って、卒業し次のステップへと巣立って行きました。爾来55年が経過、 2016年秋を迎え、青年であった若者も今や老年(73歳)となり、人生の最終章へと進んで来ています。

55年という歳月が経過する中、残念ながら道半ば、夢半ばで逝かれた方々が既に36名の多き を数えるに至っています。ましてや、50歳代前半or 50歳代中半、という人生の最盛期に逝かれた方々は悔いが残る人生ではなかったのでは!と推察致します。

今回の55周年記念同窓会に出席される方々は、それぞれの人生を順風満帆に渡って来られ、これから先もまだまだ青春時代 (健康寿命を維持している限りは青春だ) として生きて行かれることだろうと思います。

しかし、これから先の人生は、新しいことを始める、新しい遠い旅に出かける、新しい出会が待っている、ということよりもむしろ 「過去の出会い」 あるいは 「自分が築いて来た無形の財産」 を振り返り、記憶を蘇らせ、楽しかった頃、を懐かしみながら歩んで行けば良いのではないだろうか!と思っています。

そこで、私に取って強烈なイメージと共に記憶に残っている事柄 あるいは 無形の財産・宝物を上げてみました。

1.シンガポールへ赴任してから5年目に当たる2001年は、喜び・感動・感激・驚愕 に値する事柄が多く発生し、今でも強烈な印象で残っている1年でした。

1月 旧正月休みで帰国時、前年の秋急逝した竹馬の友 「小川孝美君」 のご佛前へ礼拝・・・残念無念

4月 長女の結婚式 出席で休暇を取り帰国、同時に 勤続30周年記念旅行券 で旅行・・・喜び・感動・感激

8月 父の7回忌 で帰国、帰りのJAL便の機内誌で 「イチローのレーザービーム」 記事を読む・・・・感動・驚愕

9月 仕事の出張で帰国、帰星前夜 「同時多発テロ勃発」 かつて訪れた ワールド・トレード・センタービル崩壊 ・・・驚愕

11月 横田高校卒業40周年記念同窓会 出席で帰国・・・感動・感激

2.1997年~2006年 (53歳~63歳) に渡る10年間の異国での生活体験。赴任した国はシンガポール、元々望んでいた国であり、赴任することに何の躊躇もなかった。改めて振り返ってみると、自然環境、社会環境、生活環境、の素晴らしさに感謝する10年間であった。少し例を上げてみると、

自然環境ではシンガポール島は岩盤の上に出来た島であり地震がない。赤道直下であるため台風が来ない。最高気温34℃、最低気温24℃、気温差が僅か10℃の常夏であり、半袖シャツで一年中通せると言う長所。逆に、四季がないと言う短所でもあった。

社会環境では、道路網が発達し整備されているが、車の絶対数が制限されているため、交通渋滞がなくスムースに流れる。車通勤はもとより、シンガポール島内を通してマレーシアのジョホール・バルにある工場とシンガポール空港間を結ぶロジスティック (部材の輸入と完成品の輸出) に多いに役だった。自家用車の値段が高いのが欠点であった。

生活環境では、複数の日系百貨店の地下に日本の食材が自由に手に入るスーパマーケットがあり、ほとんど日本に いる時と変わらない生活が出来た。外食環境も良く、昼食は日本食レストランに行くのが楽しみだった。まさに、シンガポールでの生活体験は、宝物として残る無形の財産となっている。

3.20135月、大学時代の同窓会に初めて出席した。今まで、大学の同窓会には出席したことがなかった。今回、2年先輩の 槇原昇氏 から 「伊藤先生を囲む会」 への案内状を頂いた。伊藤先生は、当時助手であったが、私の直接の指導教官でもあり、既にご高齢でもあることから、今回出席しなければ悔いが残ると感じ、出席したのである。

幸い、伊藤先生とは実に50年振り (半世紀振り) に再会 することが出来た。良く覚えていて頂き、感謝・感激したのである。多分、大学の同窓会も今回が、初めてで最後になるのではと思っているので、印象深く記憶に残っている。

詳細は、“初めて出席した大学同窓会の感想” に記述、文字をクリックすると繋がります。

4.201410月、関西よこた会、関西奥出雲会、の設立・運営にご尽力された 米田守之氏が73歳という若さでご逝去。尼崎市の市会議員、市会議長、等々をなされている傍ら、関西の都市と 「ふるさと横田・奥出雲」 との交流の架け橋を作られ 「ふるさと発展に寄与」 されていた。

私は、米田氏と実家が近く良く知っていたので、いろいろと声をかけてもらい手伝いをさせてもらった。その財産として、関西よこた会 「20年の歩み」、「20周年記念総会」 というDVDが残っている。

また、この両会で米田氏と共にご尽力頂いたのは、坪倉修吉先生 であり忘れることは出来ないのである。坪倉修吉先生米寿祝い (20132月) を行った時も米田氏がコーディネターとして活躍された。この時の財産として 「その足跡をふりかえる」、「お祝いの会 記録ビデオ」 というDVDを残したのである。

5.20165月、実に47年振りに名古屋を訪れた。かつて私は、19664月~19699月迄の3年半この街に住んでいた。千種区大久手にあった新白砂電機 (以下 シルバー と呼ぶ) に勤めていたからである。シルバーを退職して、三洋電機に転職し大東市に移ってから、ご無沙汰をしていた。

所が、2015年の暮れ、“瓢箪から駒が出る” (文字をクリックすると繋がります) に遭遇、シルバーのその後の状況を知った。会社は既になくなっていたが、元の社員の結束と繋がりは強く、今でも年に一回 「シルバーOB会」 が開催されているので、出席しないかと言うお誘いを頂いたのである。最初、少し途惑いを感じたが、こんなチャンスは二度と来ないだろうと思い、出席した。まさに、現代の浦島太郎物語に似た人生終盤期の無形の宝物となったのである。

詳細は、“シルバー会に出席した感想” に記述、文字をクリックすると繋がります。

さて、ここまでの人生、何とか自分が思い描いて来た人生スゴロクのように生きて来られた。しかし、これから先の人生どう生きて行けば良いのだろうか?体力的な衰えが目立つこの頃であり、いつ寿命が来てもおかしくない。従い、これから先は一年一年が勝負であり、一年無事で過ごせたら、又次の一年と、命を繋いで生きて行くしかないと思っている。

そうした生き方をする中にも、生きて行くキーワードがあり、それは 「健康寿命の維持」 と 「知的生産活動」 である。この二つを失ってまで長生きはしたくないと思っている。この二つのキーワードを維持して生きられるのは、あと数年ではないのだろうか?残りの人生を大切にしたいと思うこの頃である。

2013年9月 9日 (月)

「稲陵会関西支部総会」 に参加した感想

昨日、201398日(日)「稲陵会(橫田高校卒業生の同窓会)関西支部総会」が開催された。ちょうどこの日の朝5時過ぎに、2020年のオリンピック開催地が決定し発表された。このニュースにも気を取られていたので、慌ただしい一日であった。

参加した会場の入口で資料をもらい席に着いた。まず出席者の名簿を見たところ、41期生(昭和36年卒業)の参加者がゼロであったことに驚いた。私は42期であり1期上の卒業生であることからメンバーは良く知っていた。今回、何故ゼロとなったか誰にも聞きようがなかった。

私は、1997年~2006年迄の10年間シンガポールに在住していたので、この間は稲陵会に出席出来なかった。帰国後、2007年から出席し始めたのであるが、1997年以前の41期生の参加者は多数で元気のある姿を見ていたので、この頃の記憶が蘇り一抹の寂しさを覚えた。

そして、我々42期生も毎年1617名が参加し、最も多い参加者数を誇っていたのであるが、今年は11名と少なかった。仲間に理由を聞くと、本人の健康の問題、家族の健康の問題、等々で出席出来なかったようである。それでもまだ参加者数では、一番多い期であった。

更に、出席者の内容をよく見てみると、我々より上の世代の出席者が少なくなっているのに気付いた。しかし、全体の出席者の数は106名と例年とほぼ変わらない数であり、明らかに世代交代の波がしずかに訪れ進行していることを実感させられる総会であった。

これから先いつまで総会に出席することが出来るのか?予測はつかないけれど、少なくとも喜寿(東京オリンピック開催の年)迄は、肉体的、精神的、両面で健康を維持し出席したいと思っている。

2013年5月29日 (水)

初めて出席した大学同窓会の感想

2013518日(土)、島根県松江市 “サンラポーむらくも” にて島根大学物理系同窓会「伊藤一義先生を囲む会」が開催され出席した。

中学校、高校、の同窓会は節目毎に行われほとんど出席して来たが、何故かしら大学の同窓会については、卒業以来47年古希という年齢になるにもかかわらず出席したことがなかった。

縁がなかったといえばそれまでかもしれないが、何故か今回初めて案内状が送付されて来た。しかも恩師である「伊藤一義先生を囲む会」と銘打ってあり、これまでのご無沙汰をおわびする意味でも是非出席しなければとの想いで出席のはがきを返した。

会場に行き、事務局の槇原さんと話をしたら、伊藤先生、槇原さんと年賀状を交換していたことがきっかけで案内状を戴いたようである。

私は、1997年~2006年の10年間シンガポールに在住していたので、この間は年賀状のやりとりが途切れることもあったが、2007年帰国と共に挨拶状を出し、年賀状交換も復活した。

話変わるが、今年2月郷里の先輩で産婦人科医をされていた先生の米寿の祝いが行われた。その先生がいつも口癖のように言われていたことは、「それぞれの人の一生、与えられたご縁をくれぐれも大切にするように」であった。

今回まさに与えられた縁を大切にしていたことから、同窓会に出席出来るチャンス、即ち絆が復活したのではないかと関係者に感謝している次第である。

伊藤先生をはじめ今回お会いした先輩諸氏とはまさに47年ぶりの出会いであった。伊藤先生とは長くしゃべることは出来なかったが、お元気な姿を拝見でき初期の目的を果たした想いである。

ただ一つ残念であったのは、私と同期の出席者がいなかったことである。今後、是非同期の仲間にもPRし、次回チャンスがあれば出席を促したいと思っている。残された人生そんなに長くないので、出会いの場をよりいっそう大切にしたいと思うこの頃である。

今回の同窓会の様子をまとめたビデオをYou Tubeにアップロードしています。興味のある方は視聴頂ければ幸甚です。下記文字をクリックすると接続します。

島根大学物理系同窓会「伊藤一義先生を囲む会」

2012年6月16日 (土)

古希記念同窓会に思う

2012年6月13日(水)・14日(木)の両日、島根県仁多郡橫田町立橫田中学校 第12期卒業生 は古希記念同窓会を行った。(現在、町名は合併により奥出雲町となり、中学校も昔と違う統合された橫田中学校となっている)

今回の古希記念同窓会は、初日の懇親会を松江市の玉造温泉、国際観光旅館 「白石屋」 で行い、翌日は「玉作湯神社」で祈念、白鳥号による宍道湖観光、野津旅館で昼食、と言うスケジュールで午後2時30分現地解散した。

同窓会に集まったメンバーは、小学校、中学校、を共にした幼馴染みの仲間であり、気心が知れ、お互い元気であったことを素直に喜び合うことが出来た。しかし、古希ともなるとやはり何人かの仲間(20%)が他界し、それに触れると一抹の寂しさを覚えるものであった。

我々に取って、次の一里塚(マイルストーン)は七年後の喜寿である。全員、健康で元気でここまで到達することが出来れば良いが、現在の平均寿命、男性79歳、女性86歳、からすると男性の場合はかなり厳しい道のりであると言わざるを得ない。

私自身について考えて見ると、元々体は頑健ではなく、節制をしてきたからこそ古希までたどり着く事が出来たと思っている。しかし、ここ1~2年は急に体力の衰えを感じ、これから先どれだけ生きて行けるのか先は読めない。喜寿までは、かなり遠い道のりのように思える。

いずれにしても、一つしかない体であり命である。大切に使い、今後も節制をし、少しでも長く健康で自立した生活が出来、生きがいである知的活動が継続して行えることを願っている。

最近は医療が進歩し、生命維持装置をつければ、本人の意志に関係なく長生き出来るようであるが、生命維持装置をつけてまで長生きすること事態ナンセンスであると思っている。

2011年11月22日 (火)

高校卒業50周年に思う

2011年11月19日(土)・20日(日)の両日、島根県立橫田高等学校 第42期卒業生 は卒業50周年記念同窓会を行った。今回は、地元橫田高校での記念式典、会場を松江に移しての懇親会、翌日の市内観光、等々盛りだくさんの充実した内容であった。人生の最終章を飾る、強く記憶に残る一大イベントの一つとなりました。

我々は、第二次世界大戦の最中1943年(昭和18年)生まれの満68歳であり、来年古希(数え年)を迎える老年期に入っています。我々同期生は195名ですが、既に26名(13%)が他界し存命者は169名であります。しかし、比較的まだまだ元気な人が多いこの時期に行われたこともあり、60名が参加し盛大に会を催すことが出来たこと感謝しています。これから先、七十路に入る我々にとって、これだけ盛大な会を催すだけのエネルギーが残されているのだろうか? と思いを巡らせると今回の同窓会は 人生の貴重な宝物 となる催しであったと思っています。従い、記録を映像にまとめて残し、DVDとして全員に配布する予定です。近づく永遠の旅立ちに持参するのもよし、孫子に記念として残してやるのもよし、と思っています。

同窓会に先立ち50周年記念行事として、昨年から準備した「桜の記念植樹」を4月に行いました。橫田高校の校長、事務長、のご配慮により高校の敷地内の絶好の場所に植樹出来たこと喜ばしく思っています。記念植樹を行うに当たり、寄付を同期生全員に募ったところ、121名という多くの方の賛同を得て、当初予定していた金額をはるかに超す寄付金が集まりました。このことは、いろいろな都合で同窓会には出席出来なくても同期生皆が、青春時代を過ごした稲田ヶ丘の母校に対する愛着心は50年経った今でも変わっていないのだな! という思いを抱きました。

我々に残された人生はあとそう長くはありませんが、記念植樹の「しだれ桜」が順調に育ち、毎年4月に立派な花を咲かす姿を見守って行きたいものであると思っています。