フォト
無料ブログはココログ

カテゴリー「各種イベントと健康」の記事

2018年11月26日 (月)

2025年万博・大阪夢洲・開催に決定・・・負の遺産脱却なるか?

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

20181124日未明、2025年の万博が大阪湾に浮かぶ人工島 「夢洲(ゆめしま)」 に決定した。2025年に大阪で万博が開催されるとなると実に55年振りとなる。少し感想を述べて見たい。

2025年の大阪夢洲・万博開催おめでとう”、と素直に喜びたいところであるが、今から7年先の話である。7年先ということは、私の年齢は満82歳である。

私に取って人生の次の一里塚となるのであるが、果たして健康寿命を維持した状態でここまで到達出来るのだろうか?今の健康状態から判断すると “ノー” である。しかし、大阪での万博開催は夢のある話であり、何とかここまで到達したいと言う人生の目標になると思っている。

大阪湾にある夢洲は、大阪府・市の負の遺産となっていた。1977年から埋め立てが始まり、情報通信産業などを集積した 「新都心」 とする構想があったが、バブルがはじけてご破算となった。

そして、2008年大阪にオリンピックを招致の話が持ち上がり、オリンピック開催時は選手村として利用する計画になっていたが、招致レースは北京に敗れ幻となり、負の遺産を解消することは出来なかった。

大阪府・市は何とかこの負の遺産を解消したいと言う積年の思いを持っていた。万博開催は2014年夏、松井知事や当時の大阪市長だった橋下徹氏らが打ち出し、府が201611月に国に基本構想を提案し具体化した。

日本はフランスに続き、閣議了承を経て20174月に立候補した。その後、ロシアとアゼルバイジャンも名乗りを上げ、4カ国による誘致レースがスタートした。所が、有力なライバルとみられていたフランスが今年2月に立候補を取り下げた。

これにより、日本が競争に勝ち抜くチャンスが少し増大したと感じた。最終的に、加盟国による投票結果、日本がロシア(開催地:エカテリンブルク) とアゼルバイジャン(開催地:バクー) を破り開催国に選ばれた。

一方、今年の720日にIR (統合型リゾ-ト) 法案が成立した。この法案は、区域認定数の上限を3カ所としている。

大阪府・市は、IRの候補地を早くから負の遺産となっていた、夢洲に焦点をあて誘致を検討していた。例え、万博誘致に失敗しようとも、負の遺産解消のため、IRを必ず誘致したいとの意向を持っていた。

幸いにも、夢洲に万博開催が決定したことにより、IRを誘致するためのインフラ整備は、二つのビッグイベントを両立させると言う大目標が出来たことにより、より優位に事を運び易くなったと言える。

大阪府・市は、大阪万博開催の前年である2024年に夢洲内の隣接地に、カジノを含むIRの開業を目指している。松井知事は、「万博とIRでベイエリアを開発し、東京五輪後の日本経済を牽引する起爆剤としたい。」と豪語している。

負の遺産であった夢洲は、二つのビッグイベントの実行・開催により、今度こそ 負の遺産から脱却し本当の「夢の島」に変貌する 事が期待されるのである。

所が、将来の夢の話 (いや夢ではなく実現する話) ばかりが先行するようであるが、目の前には南海トラフ大地震・大津波が迫っている。これに対する対策をどうするのかと危惧し、IR・万博等に莫大な予算を使う前に災害対策に当てるべきであるという声も聞こえるのである。

地震・津波と言う災害の話は、いつ起こるか予測することは不可能であり、予測不可能なことに備え、莫大な予算を見込むと言うのも難しい話である。IR・万博か、災害対策かと言う二者択一論ではなく、両者を適切に見据えて行政を行って行くのが、今の大阪府・市に問われている課題であると思っている。

2018年4月21日 (土)

洋友会30周年についての雑感・・・過去を振り帰って見た

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

洋友会 (三洋電機定年退職者の会) は、19897月に設立され今年30周年を迎えます。2018418日に大東地区の洋友会総会が太閤園で開催され出席して来ました。参加者は例年より少し多い122名でした。ここで洋友会についての少し雑感を述べて見ます。

私が洋友会に入会したのは、定年退職をした20031120日でした。所が、この時はまだ赴任地のシンガポールで勤務いていましたので、一時休暇を取る形で日本へ帰国し定年式に出席、その後とんぼ返りでシンガポールへ帰り職務を継続すると言う慌ただしさでした。

と言うのは、2003年の定年を迎える頃は、担当していた携帯電話事業が絶好調で、年々右肩上がりの生産・出荷台数を記録していました。2003年は対前年比307%、2004年は対前年比143%、2005年は対前年比148%、2006年は対前年比105%と言う伸びでした。出荷先は、米国のスプリント社でOEM供給をしていました。

こう言う状況であり、定年が来たからと言って 「ハイ、さよならします。」 と言って帰れる状態ではなく、しばらく残って継続して欲しいと言う要望を受けていたので、喜んで引き受け、結局2006年度末まで勤務し、2007年初頭に帰国しました。

従い、洋友会に入会していたものの3年強は活動に参加出来ず、本格的に活動参加をし始めたのは、20074月からでした。20074月の歩こう会、大東地区総会、5月の日帰りバス旅行、が始まりでした。その後も、主にこの組み合わせで参加して来ました。

参加する行事が大きく変わったのは、20121115日にカラオケクラブが発足したことでした。カラオケは元々好きな趣味でしたので諸手をあげて発足当時から参加しました。当時の記録をブログ (写真付) に載せていますので参照頂ければと思います。下記アドレスをクリックすると繋がります。

http://sndrs245.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-f295.html

カラオケクラブについては、ほとんど毎月例会A (ソフトドリンク付) に参加して来ました。参加出来なかったのは、病気入院した時でした。2014年には、2回入院するアクシデントが有りましたが、その1ヶ月後には復帰して参加しました。

洋友会の行事に長期参加出来なくなったのは、20174月に脊柱管狭窄症の疑いで、足腰に脱力感を感じ、歩けなくなった時でした。この時は、カラオケも地区総会も断らざるを得ない状況になり、残念無念と言う心境でした。

その後、整形外科の医師の指導の下、ストレッチと歩行訓練を積み重ね、数ヶ月後徐々に歩けるようになり、カラオケ・今回の定期総会と参加して来ました。しかし、歩行が完全に良くなったわけではなく、依然としてリハビリが続いている状況下であり、何時又歩けなくなる時が来るかもしれないと言う恐怖心を抱きながらリハビリを続けています。

残念ながら、歩こう会に参加出来る程、回復して来ているのではなく、歩こう会の参加は201661日の新緑「歩こう会」が最後でそれ以降参加していません。参加したいのですが、今のところ無理のようです。

今年、後期高齢者の仲間入りをしますが、後期高齢者など恐れることなく、何時の日か復帰出来る日を目標に頑張って行こうと思うこの頃です。

2013年9月 9日 (月)

「2020年東京五輪決定」 に対する私の想い

2020年のオリンピック開催地が東京に決定した。朝のテレビ放送を見ていて、素直な気持ち大喜び、拍手喝采万歳をしたのである。事前の予想、特にロンドンのブックメーカー(賭屋)の予想では、318日時点で東京のオッズが1.67倍、イスタンブールが3.5倍、マドリードが4.0倍、であった。直前でもこの流れは大きく変化せず、東京が1.5倍、イスタンブールとマドリードが共に4.0倍であった。内心ブックメーカの予想は当てには出来ないとは思っていたが!

案の定、直前に行われるプレゼンの前に立ちはだかったのが福島原発の汚染水漏洩問題である。各国メディアが急にクローズアップし出したのである。プレゼンの第一陣の説明のあと、メディアからの質問はこの問題に集中した。所が、日本側から明快な説明がなされず、より不安を与える結果となっていた。そして、スペインのメディアは非常に強気で、第一回の投票でマドリードが過半数を制するという報道もあり、またまた東京は涙を飲むのかなと非常に弱気になったのである。

所が、投票結果は東京の圧勝であった。何故こうなったのかいろいろなメディアの報道を読んでいると、安倍首相のプレゼンと質疑応答に対する明快な回答がオリンピック委員を納得させたとの論評が多かった。ロイター通信によると、ジャック・ロゲ会長は調印式で、安倍首相自ら「安心して任せてもらえる」と発言したことに触れ、「自分は整形外科医でもあり、投票権を持たなかったとはいえ、この言葉は響いた」と報道している。

前置きが長くなったが、本論に入る。私は、今年満70才(古希)である。オリンピックが行われる7年後は満77才(喜寿)である。偶然に慶事が重なる人生の新たな生きる目標が出来たのである。

私は、3年程前から体調を崩し、健康にあまり自身が持てない状況が続いていた。2011年の秋に行った橫田高校卒業50周年記念同窓会の後のブログ(20111122日発行)、そして昨年行った古希記念同窓会の後のブログ(2012616日発行)を読んで見るとその時の体調が左右しているのか、非常に弱気な内容となっている。

古希記念同窓会の後、次は喜寿記念同窓会で再びお会いしましょう!と言って別れた。この時は、まだ弱気な状態であったので、果たして喜寿までたどりつくことが出来るのかなと疑心暗鬼の状態であった。

体調を崩してから、医者にかかりいろいろな検査を行い結果に基づき処方をしてもらっていた。一方、腰痛と座骨神経痛も併発し整骨院へも通い続けていた。当初はあまり改善する兆しは見えなかったが、「継続は力なり」のことわざの如く、1年半経過した昨年の後半から少しづつ改善に向かい始めた。そして、昨年末で整骨院への通院を止めても大丈夫という確信が持てる程、回復したのである。

これに伴い、自分の健康に対する不安が少し解消され、自信がもてるようになって来た。そして、この分だと喜寿までたどり着く事が出来るのかな!と気分が変化して来た。私に取っての健康とは、物理的に人の助けを必要とせず自立して生活が出来ること。更には、知的生産活動を継続して行うことが出来ること。この二つをクリアする事である。

人生の次の目標は、私が定義する健康状態を維持して、次の一里塚(マイルストーン)「喜寿」まで到達することである。そこまで到達した暁のご褒美のような存在として現れたのが今回決定した「東京オリンピック」である。今後は、「東京オリンピック」も人生の次の一里塚の併行目標として加えて行きたいというのが現下の「2020年東京オリンピック」に対する想いである。