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カテゴリー「ニュースと思い出」の記事

2014年10月18日 (土)

同じ郷里出身の先輩、早すぎるご逝去を悼む

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私と同じ郷里出身の先輩で、尼崎市の市会議員、市会議長、等々を25年間勤められていた米田守之氏が亡くなられ、本日1018日阪神平安祭典会館で告別式が行われた。市会議員は辞められていたが、現在もまだ現役で活躍されている身で有り、私もいろいろな会合で声をかけてもらい私的な役割を頂いていた先輩であり、73歳という若さで亡くなられたのが残念でならないのである。

米田さんは私と同じ郷里、島根県出雲横田の出身で実家が非常に近く50m位しか離れていなく、3歳年上であったが子供の頃からいろいろと交流をさせてもらっていたのである。実家は、鍛冶屋を営んでおられ小学校の通学途中にあったので、下校の途中米田家の前で立ち止まり道草をして、鍛冶屋の現場をよく眺めていたのを思い出すのである。

米田さんは、尼崎市の市会議員という仕事をされている傍ら、故郷である出雲横田(2005年町村合併で奥出雲町になる)と尼崎市をメインとする都市とのふるさと交流事業等々にご尽力され、1989年(平成元年)に 「関西よこた会」 設立に当たりメインコーディネータとして活躍されたのである。

「関西よこた会」 では、米田さんに声をかけてもらい役員をしていたが、途中1997年に海外への転勤が決まり、2006年までの10年間日本を離れブランクを作ってしまったのである。しかし、2007年に海外から帰国すると、「よく帰って来てくれた、また再び役員の続きをやってくれや」 と声をかけられ、2007年の役員会から出席し出したのである。

ちょうどその頃、「関西よこた会」 は20周年を迎えると共に町村合併により最後の会となる時期であった。最後の 「関西よこた会」 を開催するに当たり、「何か記念になる催しを行いたいが、何か良いアイディアはないのか?」 という事が役員会で議論され、過去20年間の写真を集め、「関西よこた会、20年のあゆみ」 というDVDを作って上映しようということになり、DVD作りに汗を流したのが、ついこの間のようによみがえってくるのである。

「関西よこた会」 は20081130日、最後となる20周年記念総会を持って終了したのである。最後の記念総会もビデオを撮りDVD化し、「20年のあゆみ」 と最後の 「ふるさと交流2008」 を併せて一つのDVDにまとめ最後の記念版が完成したのである。このDVDが残っている限り、当時の米田さんの活躍の姿が映像で見られるというのが、今となっては救いである。

「関西よこた会」 が終了した後、次の 「関西奥出雲会」 設立に当たっても、やはりメインコディネータとして活躍され 「関西奥出雲会」 設立と同時に事務局長に就任、現在も継続してその任に当たられている途中でのご逝去であり、返す返すも残念という言葉しか出て来ないのである。

昨年20132月には、同じく出雲横田を故郷とする東大阪在住で産婦人科を経営されていた坪倉修吉先生の米寿を祝う会が催され、この時も代表世話人として活躍されたのである。この時も米田さんから声をかけられ、「浅山君、また君の仕事が出来たので協力してほしい」 という依頼を受け、DVD作成という仕事を引き受けたのである。この時も、代表世話人として挨拶されたのが強く印象に残っている。当然、挨拶を写したカットなし録画DVDが残っているので、再生して振り返ってみたいと思っているのである。

更に、20136月には、「関西奥出雲会」 5周年記念行事として、「奥出雲ふるさとツアー」 が企画され、この時も先頭に立って指揮を取られていたのである。このように、米田さんはコディネータとして抜群の才覚を持った方であり、なかなか米田さんの後を継ぐような方は出て来ないのではないかと思っている。せめて、現在の日本の男性の平均寿命である80歳までは生きて、関西奥出雲会10周年を指揮して欲しかったと思っていたのであるが残念である。米田さんのご冥福をお祈り致します。

2014年3月15日 (土)

いつの世にも、時は静かに流れて行く

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昨日314日夜、時の流れを静かに実感する出来事があった。

一つの出来事は、人々の夢と希望を乗せ昭和から平成へと時を運んで来た、上野と青森を結ぶ寝台特急ブルートレイン 「あけぼの」 がラストランを迎え、44年の歴史を終えたことである。車体の老朽化、乗客の減少、等々時代の波には逆らえず引退の潮時を迎えたのである。

「あけぼの」 は1970年(昭和45年)にスタート、高度経済成長期に、東北から上京した若者が、後に出世して誇らしげに 「あけぼの」 に乗って帰省したため、「出世列車」とも呼ばれていたという。

私には、直接関係のない列車であるにも関わらず、何故かしら郷愁をさそう出来事であり、自分が大学を終えて社会へ出発した時の事が思い出され共感を覚えたのである。

私が大学を卒業して就職したのは、「あけぼの」 のスタートより4年早い1966年(昭和41年)3月であった。卒業式を終えるやいなや、3月19日(土)の夜行列車で松江を発ったのである。この年は、3月20日が日曜日、3月21日が春分の日で休日、そして連休明けの3月22日が会社の入社式であった。

卒業実験のまとめを終えレポートを提出したのは卒業式の直前であった。そして迎えた卒業式3月18日(金)、非常に慌ただしい中、出席したのを記憶している。そして、卒業式の余韻を味わうまもなく、翌日の夜行列車に飛び乗って故郷を後にしたのである。

小雨がパラツク中、同郷(出雲横田)の友人が一人だけ見送りに来てくれた記憶が残っている。夜行列車で一人寂しく故郷を発ったのである。しかし、これから本当の自分の人生が始まるのだと、心の中は夢と希望に燃えていた。あれ以来ほぼ半世紀の時が流れ、今振り返ると松江を発ったあの時が、今ある私の原点であったと思っている。

もう一つの出来事は、俳優 「宇津井健」 の訃報である。最近まで、テレビドラマ 「渡る世間は鬼ばかり」 に出演して元気な姿を見せてくれていたので、あれだけ元気だったのにやはり歳が行けば、突然こういうことが起こるのもやむを得ないことだと納得させられる思いであった。

満82歳といえば、早くもなく遅くもないちょうど良い人生であったのではないかと静かに思っている。「宇津井健」は、たくさんの映画、テレビドラマ、に出演し人気のある俳優であった。私の記憶に強く残っている印象は、やはり最近まで出演していたドラマ 「渡る世間は鬼ばかり」 での岡倉大吉という父親役での主演である。

このドラマは、橋田壽賀子の原作で1990年TBSの開局40周年記念として放送されたが好評でその後、断続的に継続され2013年までの約23年間も続いたのである。

前半の1990年から1996年までは日本で見ていた。その後、海外へ転勤で10年間のブランクがあったが、2007年に帰国するとまだこのドラマが続いていて見始めたのである。人生の機微と風刺を織り交ぜたドラマであり、ある部分共感する思いで毎回欠かさず見ていたのである。

スタート時のドラマの主役を務めていたのは、藤岡琢也であったが長い間続くドラマの中、藤岡琢也もいつの間にか亡くなり、後を受け継いで主役を演じたのが宇津井健であった。

宇津井健も私より12歳年上であり、年の割には若々しく親父の役割を演じていたので、宇津井健が元気である限りこのドラマはまだまだ続くのではないのかと思っていたが、主役があっけなく亡くなり、もうこのドラマ続くことはないだろうと思うと寂しい限りである。

これも時の流れであり、「流れに棹さす」ことは出来ない。時の流れを静かに受け入れ、淡々と生きて行くしか出来ないと思っているこの頃である。

2013年11月10日 (日)

青春時代の一側面を思い出させる、スター歌手逝く

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私が最も多感であった少年時代から青年時代にかけて、強烈な思い出を残してくれた当時のアイドル歌手「島倉千代子」が亡くなった。島倉千代子がデビューして3~4年間に歌った歌が最も印象に残っている。澄んで透き通るような高音の魅力にとりつかれ、当時ラジオで良く聞いたのを覚えている。

印象に残っているのは、1955年のデビュー曲「この世の花」、同じ年の「りんどう峠」、1956年の「東京の人さようなら」、1957年の「逢いたいなァあの人に」、「東京だよおっ母さん」、1958年の「からたち日記」、「思い出さん今日は」等々である。

これらの歌は、いずれも島倉千代子が10代に歌った曲である。私の歳に重ねると、ちょうど小学校6年生~中学校3年生の頃である。当時は、テレビもなく歌を聴くとすればラジオからだけであったが、何故かしら、島倉千代子の訃報を聞いた途端に、この頃の思い出が急に強く甦って来た。

当時、我が家には親父が手作りした部品むき出しのラジオがあり、エアバリコンを回しながら選曲し歌謡曲を良く聴いていた。住んでいたのは、東京からは遠く離れた島根県の東部、奥出雲の横田であったにもかかわらず、夕方6時頃から9時頃にかけて、電離層による電波の反射状況が良かったのか、東京の文化放送とか日本放送が受信でき、鮮明に良く聞こえていた。昼間は受信できなかったが。

私の親父の職業は、時計屋と兼業で農業を行っていた。もともと機械とか電気をいじるのが大好きで、私が小学校の高学年のころから時計屋をやりながら、趣味でラジオを作っていた。40センチ(横幅)×30センチ(奥行)×5センチ(高さ)位のシャーシを買って来て、それを加工して真空管、コイル、バリコン、トランス、等々を取り付けていた。そして、シャーシの裏側には、ラグ版に抵抗、コンデンサー等々を取り付け配線を行っていた。

子供の頃の好奇心で、親父がラジオを作るのを側に座ってじっと見ていた。今でも鮮明に覚えているのは、パワー真空管の名前である。2A3という名称で直径が4センチ位ある大きな真空管を使用していた。パワーもそこそこ出ていたのでスピーカは口径が30センチの大型でボックスも特注して作ったものであった。

親のDNAを引き継いだのか、私も大学生の頃下宿でラジオを作っていた。当時は、FMのステレオ放送が始まったばかりで、FMチューナとステレオアダプターを作り聴いていた。AM放送に比較し忠実度が良いFM放送を楽しむというより、ステレオになるということ自体がうれしかった。この頃は、真空管も小さくなりミニチュア管を使用していた。トランジスターは、まだあまり普及していなく、市販もほとんどされていなかった。

島倉千代子の思い出に立ち返ると、後年私がシンガポールへ赴任するとき、島倉千代子のCDを借りてきて、C90のカセットテープに26曲録音し持参し、シンガポールで車を運転するときによく聴いていた。この時のカセットテープは、シンガポールから帰任時持ち帰ったので、現在も手元に残っている。島倉千代子初期の頃から、昭和60年頃までのヒット曲が入っている。島倉千代子の訃報を聞き、今またこのテープを取り出して来て、初期の頃のなつかしい曲を聴いている。