同じ郷里出身の先輩、早すぎるご逝去を悼む
私と同じ郷里出身の先輩で、尼崎市の市会議員、市会議長、等々を25年間勤められていた米田守之氏が亡くなられ、本日10月18日阪神平安祭典会館で告別式が行われた。市会議員は辞められていたが、現在もまだ現役で活躍されている身で有り、私もいろいろな会合で声をかけてもらい私的な役割を頂いていた先輩であり、73歳という若さで亡くなられたのが残念でならないのである。
米田さんは私と同じ郷里、島根県出雲横田の出身で実家が非常に近く50m位しか離れていなく、3歳年上であったが子供の頃からいろいろと交流をさせてもらっていたのである。実家は、鍛冶屋を営んでおられ小学校の通学途中にあったので、下校の途中米田家の前で立ち止まり道草をして、鍛冶屋の現場をよく眺めていたのを思い出すのである。
米田さんは、尼崎市の市会議員という仕事をされている傍ら、故郷である出雲横田(2005年町村合併で奥出雲町になる)と尼崎市をメインとする都市とのふるさと交流事業等々にご尽力され、1989年(平成元年)に 「関西よこた会」 設立に当たりメインコーディネータとして活躍されたのである。
「関西よこた会」 では、米田さんに声をかけてもらい役員をしていたが、途中1997年に海外への転勤が決まり、2006年までの10年間日本を離れブランクを作ってしまったのである。しかし、2007年に海外から帰国すると、「よく帰って来てくれた、また再び役員の続きをやってくれや」
と声をかけられ、2007年の役員会から出席し出したのである。
ちょうどその頃、「関西よこた会」 は20周年を迎えると共に町村合併により最後の会となる時期であった。最後の
「関西よこた会」 を開催するに当たり、「何か記念になる催しを行いたいが、何か良いアイディアはないのか?」 という事が役員会で議論され、過去20年間の写真を集め、「関西よこた会、20年のあゆみ」 というDVDを作って上映しようということになり、DVD作りに汗を流したのが、ついこの間のようによみがえってくるのである。
「関西よこた会」 は2008年11月30日、最後となる20周年記念総会を持って終了したのである。最後の記念総会もビデオを撮りDVD化し、「20年のあゆみ」 と最後の 「ふるさと交流2008」 を併せて一つのDVDにまとめ最後の記念版が完成したのである。このDVDが残っている限り、当時の米田さんの活躍の姿が映像で見られるというのが、今となっては救いである。
「関西よこた会」 が終了した後、次の 「関西奥出雲会」 設立に当たっても、やはりメインコディネータとして活躍され
「関西奥出雲会」 設立と同時に事務局長に就任、現在も継続してその任に当たられている途中でのご逝去であり、返す返すも残念という言葉しか出て来ないのである。
昨年2013年2月には、同じく出雲横田を故郷とする東大阪在住で産婦人科を経営されていた坪倉修吉先生の米寿を祝う会が催され、この時も代表世話人として活躍されたのである。この時も米田さんから声をかけられ、「浅山君、また君の仕事が出来たので協力してほしい」
という依頼を受け、DVD作成という仕事を引き受けたのである。この時も、代表世話人として挨拶されたのが強く印象に残っている。当然、挨拶を写したカットなし録画DVDが残っているので、再生して振り返ってみたいと思っているのである。
更に、2013年6月には、「関西奥出雲会」 5周年記念行事として、「奥出雲ふるさとツアー」 が企画され、この時も先頭に立って指揮を取られていたのである。このように、米田さんはコディネータとして抜群の才覚を持った方であり、なかなか米田さんの後を継ぐような方は出て来ないのではないかと思っている。せめて、現在の日本の男性の平均寿命である80歳までは生きて、関西奥出雲会10周年を指揮して欲しかったと思っていたのであるが残念である。米田さんのご冥福をお祈り致します。