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2018年12月16日でNHKの大河ドラマ
「西郷・セゴドン」 が終了した。最初から最後まで全編見逃すことなく、堪能させてもらった。用事でテレビを見る事が出来ない時もあり、ビデオに録画しておき、後から見ることで補うことが出来た。
大河ドラマを全編全部見たのは、2014年岡田准一が主役を演じた
「軍師官兵衛」 以来4年ぶりである。この年は、心筋梗塞、一過性の脳虚血発作、等々病気で都合5週間入院した。入院中の楽しみの一つがテレビドラマを見ることであった。
「西郷・セゴドン」の場合、ドラマは鹿児島弁で進むので、言葉が聞き取りにくく理解しづらい面も多かったが、それを補うため、予めドラマのあらすじが書かれた雑誌を3冊 (前編、後編、解決編) を購入し、ドラマが始まる前に予め、あらすじを読み理解したうえでドラマを見た。
ドラマは幕末から明治維新初期にかけてのものであり、改めてこの時代の時代変遷が如何に凄いものであったかを感じさせられた。特に、ドラマの主人公であった
「西郷隆盛」 の波瀾万丈の生涯を通してである。
幕末から明治初期を全力で駆け抜ける西郷吉之助であるが、活躍するチャンスを掴んだのは、18歳で年貢徴収などを行う役目に就き、農民の暮らしが如何に大変かを知り、農民救済の意見書を藩主島津斉彬に提出し、認められたことから始まる。
島津斉彬は江戸で生まれ江戸住まいの身であり、薩摩の民百姓の苦しみなど全く知らず、これらから逃げていたのである。西郷吉之助からの数々の書状で島津藩の悪政を知り、藩主である実の父島津斉興を追い落とし自ら藩主になる。
比類無き壮大な政治哲学を持っていた斉彬は幕末期を牽引するカリスマ的存在であった。その斉彬が吉之助の資質を認め大抜擢したことが、以降の吉之助の大活躍を導き出したと思っている。
吉之助を認めていた斉彬は、自分の代わりに動いてもらいたい意図から、最終的には 「お前はわしになれ」
と言ったほどであった。所が、斉彬がこれから動き出そうとして薩摩で軍事調練をしているさなか倒れ、49歳という若さで急逝してしまう。ここから、吉之助の茨の道が始まり紆余曲折の数年間を過ごすことになる。
その始まりは、安政の大獄で幕府から追われる身となった 「月照(将軍継承問題で島津斉彬を支えていた)」
と共に入水自殺を図った吉之助は、奄美大島で奇跡的に一命を取り留め、島の娘・愛加那と出会い二度目の結婚をする。35歳で長男「菊次郎」が生まれる。
この菊次郎は、薩摩の西郷家3番目の妻 「糸」
の計らいで9歳の時、薩摩の西郷家に引き取られる。菊次郎が17歳の時、西南戦争が起こり、父が率いる反政府軍に参加するが、戦闘中に脚に銃弾を受けて歩けなくなる。
退却を余儀なくされた西郷軍は、歩けなくなった菊次郎を西郷隆盛自らが背中におんぶして退却して行く場面に心を打たれた。奄美大島の愛加那との間に生まれた長男菊次郎であるが、実の親子の愛情をしみじみ感じさせられる場面であり、目頭が熱くなる思いであった。
2月に始まった西南戦争であるが、3月田原坂で一進一退を繰り返し10数日間に及ぶ激戦になる。しかし、政府軍の圧倒的兵力と大量に導入された最新式の銃や大砲の前に、弾薬すら尽きた西郷軍は、ついに田原坂を突破されてしまう。
西郷軍は追ってくる政府軍と戦いながら転々と移動し、8月には宮崎の延岡に移っていた。武器や食料を調達するため鹿児島へ帰っていた同士の一人久武が、西郷の妻
「糸」 を伴って戻って来た。
もはや、これまでと言う段階であり、隆盛は糸に 「糸どん・・・・こいが、最後じゃ」、糸には苦労ばかりかけた。いろいろ言いたいことがあるだろう。しかし、糸の望みはただ一つだけだった。
「旦那さぁが西郷隆盛でなかったら、どげんよかったか・・・・吉之助さぁが、ただの百姓だったら、どげんよかったか・・・・・」と言って涙を流す糸を、隆盛は胸に抱き締めた。この場面も見ているものにもらい泣きをさせる名場面であると感じた。
もともと西郷隆盛は、西南戦争など起こす気はさらさらなかったのであるが、政府の役職を辞めると言う決断に追い込まれたことから始まる成り行き次第の結果だったと思っている。
西郷隆盛が政府の要職を辞すると言う決断をする羽目に追い込んだのは、大久保一蔵の知恵である。良き知恵であったのか?悪知恵であったのか?は後世の人々が判断するところであると思っている。
それは、既に閣議で決定されていた、西郷隆盛一人で行く朝鮮国使節派遣を覆す策略である。岩倉具視を使い天皇に使節覇権を辞めさせるように直訴する形で行われた。
隆盛は鹿児島へ帰る前に、大久保邸を訪れ、岩倉を動かし隆盛の朝鮮派遣を潰すように仕向けたのは、大久保が仕組んだ謀りごとか?と確認するとその通りと認める。
大久保に取っては、最優先事項は富国強兵であり、隆盛の 「人を信じる」 と言う政は甘いと思っていた。そこで、隆盛を政府から追い出したかったので策略を労したのである。大久保は、卑怯者と思われようと覚悟のうえでやったのである。
そこで、隆盛は 「おいのまけじゃ。あとは、おはんのやり方でやれ。思い切りやれ。おいは大久保一蔵の国づくりを眺めながら、鹿児島で畑を耕す」
と言って熊吉とともに人知れず東京を去って行った。これが朋友との永遠の別れとなったのである。
皮肉なことに、大久保一蔵は西南戦争が終結した翌年、馬車で赤坂仮御所へ向かう途中に暗殺された。西郷隆盛が政府に残り政を継続したのが良かったのか?大久保一蔵のやり方で政を進めたのが良かったのか?これもまた後の世の人々が判断するところであると思っている。
鹿児島で生まれ育った、西郷隆盛、大久保利通、は幼友達でありお互いに切磋琢磨しながら、幕末から明治初期の日本を牽引して来た英雄である。今更どちらがどうのこうのと言うつもりはない。
しかし、世間の評価は西郷隆盛により好意的である。それは、西郷隆盛が江戸城無血開城等々、政府軍と幕府軍との戦いに於いて、随所で人道的配慮を常に行って来たからであると思っている。